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I met him on a Sunday [story]


♪ 遠い海に波が光る あれはジョニーの青い墓標
  ひとりで生きる 俺の胸に
  今も聞こえる  あの声よ
  想い出すのはジョニー いってしまったジョニー
  想い出すのはジョニー ジョニー
  海を見ていたジョニー ジョニー
  海を見ていたジョニー ジョニー

「海を見ていたジョニー」(詞・五木寛之、曲・叶弦大、歌・渡哲也、昭和42年)。
五木寛之のベストセラーで自身が作詞を担当。歌唱は渡哲也。ということは映画の主題歌か。と思ったらそうではない。この題名の映画は作られていない。見てないがドラマや劇画にはなったらしい。42年といえば、渡哲也主演の映画「青春の海」、「陽のあたる坂道」が作られている。ということは、そうした文芸路線の流れで「海を見ていたジョニー」映画化の企画はあったのかも。しかし、なぜかそちらへは行かず、その年の後半、かの名作「紅の流れ星」が公開。そしてそれをケジメに翌43年から「無頼」「前科」のヤクザシリーズへ突入していく。大ヒット曲「くちなしの花」が世に出る6年前の作品である。なお、五木寛之作詞の流行歌は「青年は荒野をめざす」(フォーク・クルセダーズ)、「愛の水中花」(松坂慶子)、「織江の唄」(山崎ハコ)、「旅の終りに」(冠二郎)などけっこうある。

ピッチャーのゴメスがバッターを得意のナックルで三振に仕留めゲームセット。3対1でポートランド・シードッグスがコネチカット・ディフェンダースを破った。千人あまりの観衆から拍手と歓声が湧き起こった。
ここはボストンから車で北へ2時間あまり行ったところにあるハッドロック・フィールド。シードッグスの本拠地だ。シードックスはボストン・レッドソックスの傘下にあるダブルA、つまりマイナーの球団なのだ。

7月の午後の風は心地いい。ゲームも楽しかった。わざわざボストンから2時間かけてやってきた甲斐があったというものだ。アトラクションをいれて4時間あまりの時間をたった6ドルで買えたのだから安いものだった。ゆっくりと潮がひくように観客が出口から消えていく。青空の下、大分軟らかくなった西陽を受けながら、わたしは観客席に座ったまま、もう少し余韻に浸っていたかった。

そのとき、ひとりの男がわたしの隣に腰を降ろした。サングラスに派手なアロハ、それに半ズボンといかにもアメリカンらしい。大きな男で、半分ちかく白くなった髪の毛と頬の深い皺から年齢は50代後半だろうか。
「日本の人ですか?」
男は笑顔でそう訊いた。どこから見てもアングロサクソンという顔付きに似つかない流暢な日本語にびっくりした。
「私はジョニー・アンダーソンといいます。あなたは観光で来たのですか?」
彼は名を名乗るとふたたび質問してきた。お返しにわたしも名を名乗り右手を差し出した。男は快く握手で返してきた。大きな手だ。わたしは、毎年今頃、日本からボストンへ会社の出張で来てひと月ほど滞在すること、メジャーリーグが好きで休日はいつもレッドソックスを見にフェンウェイパークへ足を運ぶこと、そして今日はレッドソックスの試合がないので、ここまでマイナーリーグの試合を見に来た、ということを手短に彼の質問の応えとして話した。
「こんなところで日本人に会えるとは思わなかった」
と言ってアンダーソン氏は笑顔で首を振った。今度はわたしの番だ。
「とても日本語がお上手ですけど、日本にいらっしゃったことがあるんですか?」
「僕は横浜で生まれたんです。もう亡くなりましたが母親は日本人です」
アンダーソン氏はわたしの質問を待っていたんだといわんばかりに、そう応えた。そして、
「もう30年以上前になりますが、ボルティモアで1年だけプレーしたことがあります」
と付け加えた。わたしは彼が元メジャーリーガーだったということを知って興味を持った。そして彼の話を聞いていくうちに、さらに驚かされた。

ジョニー・アンダーソン氏はなんと、日本の近鉄バッファローズでプロ野球デビューを果たしたというのだ。それもよくある助っ人外人ではなく、れっきとした日本人として。その頃は日本国籍で松岡守という名前だったのだそうだ。そしてさらに驚くことに、彼はその年すぐ1軍にあがり、対阪急ブレーブス戦で初打席初ホームランという快挙をやってのけたのである。その後、膝の故障に悩まされ1軍と2軍を行ったり来たりする生活が続いた。
そして入団から5年目、彼はプロ野球選手としてピークを迎えるはずだった。ようやく故障も完治し、その年はオープン戦からもの凄い勢いで打ちまくった。結局オープン戦8ホームランは12球団でもナンバーワンだった。公式戦開幕では4番レギュラーが約束されていた。ところが、松岡守は4月の開幕戦に出場しないまま、近鉄を退団してしまったのである。その理由は彼が5歳のときに単身アメリカへ帰ってしまった父親が、母親と彼をアメリカへ呼び寄せ一緒に暮らしたいと言ってきたからだという。彼はいとも簡単に野球よりも家族を選択したのである。

アメリカへ渡り、国籍とジョニー・アンダーソンという名前を得た彼だったが、やはり野球を忘れることはできなかった。父親に30歳までという約束で地元のマイナー球団に入った。そして4年後、メジャーの名門、ボルティモア・オリオールズへの入団を果たしたのである。もし松岡守がアメリカ国籍を取得していなかったら、野茂英雄に遡ること20年、彼はマッシー村上に次ぐ、日本人ふたり目のメジャーリーガーになったはずだったのだ。しかしオリオールズでは、さしたる成績を残せず、その年のオフに解雇された。30歳になる少し前だった。その後、彼は約束どおり、父親がポートランドで経営する魚肉の罐詰め工場を継ぐことにしたのだという。

「私の野球人生は、メジャーリーガーとしての1年ではなく、近鉄での21本のホームランだよ」
と付け加えた。
「日本へは何度か帰りましたか?」
と訊ねると、首を振って、
「いやあ、ずいぶん不義理をしてしまったもんだから……」
と静かに笑った。
「不義理も30年経てば、思い出話に変わりますよ」
わたしがそう言うと。
「そうかもしれないね。そう、死ぬ前に一度は日本へ行ってみたい……」
と言って笑った。

わたしは帰国してから、知り合いのスポーツライターに松岡守のことを調べてもらった。
すると数日後、信じがたい返事がメールで送られてきた。それによると、松岡守という人物は近鉄バファローズはおろか、全プロ野球球団の名簿にも載っていないというのだ。では、ジョニー・アンダーソンという名前はないかと問い合わせたが、それもないという返事だった。
ということは、アンダーソン氏が語ったことはすべて作り話なのか。あの流暢な日本語から推測すれば、彼が日本にいたことは間違いない。しかし、近鉄に入団したこと、退団のいきさつ、そしてメジャー入団はすべて嘘だったのか。騙しやすい日本人を見つけて暇つぶしの大ボラをかましてくれたのか。
しかし、あのときの彼の話しぶりが嘘だとはどうしても思えない。今年もまた7月にボストンへ出張する予定だ。そのときはぜひ、再びあのハッドロック・フィールドへ行ってみよう。そうすればまたジョニー・アンダーソン氏に会えるかもしれない。


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