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その名は●みちこ① [the name]

美智子.jpg

♪君思う たそがれの 空に出る 月ひとつ 
 小夜更けて 流れくる 懐かしの プリンセス・ワルツ
 あの日から この胸に 熱く燃えて 夜もすがら
 あこがれは いつの日も 乙女のうたう プリンセス・ワルツ
(「プリンセス・ワルツ」詞:門田ゆたか、曲:原六朗、歌:コロムビア・ローズ、昭和32年)

前回のブログで青山ミチ「叱らないで」にふれましたが、そのとき一緒に聴いたのが、

♪恋しているときゃ 素敵な目 という「ミッチー音頭」。このパンチの効いた歌のほうが巷に流布したような気がします。

ミッチーとはもちろん青山ミチからとった愛称ですが、わたしにとってというか一般的にミッチーといえば「みちこ」でしょう。

「みちこ」には美智子、美知子、道子、三千子などがありますが、もっともポピュラーなのは「美智子」ではないでしょうか。
わたしにも「美智子」との忘れられない思い出がある(道子もあるんだなぁ)のですが、また長くなりそうなのでいずれまた。

とにかく、もはやクラシカルネームになった感のある「美智子」ですが、昭和、とりわけ30年代あたりまでは人気の名前でした。
その頃小中学生だった方々は、思い返してみれば、クラスにひとりやふたりはいたのではないでしょうか。

例の某生保調べの名前ランキングをみても、昭和6年にランキング入りしてから、戦後は30年代半ばまで、1位にこそなれなかったが、ベストテンのほぼ常連。

その「美智子」がベスト10から消えるのは昭和35年。前年の34年4位だったのが、次の年にはいきなりランク外。
実はこれにはちゃんとした理由があったのです。

現天皇の明仁親王と皇后の美智子妃のご成婚が昭和34年。
皇太子が見染めた一般人のプリンセス、それが正田美智子さんでした。

二人の結婚が発表された33年の11月から翌年にかけていわゆる「ミッチー・ブーム」が起きたそうです。ミッチーとはもちろん美智子の愛称で、はじめて一般人から皇室に入るという“ドラマ”も雑誌が煽って当時のプリンセス美智子は時の人になったのです。

ミッチー・ブームとは具体的にどういう現象だったのかというと、ひとつはヒロインのファッションで、Vネックのセーターやカーディガン、あるいは白いヘアバンドなどが真似されたとか。また、二人が出会ったというテニスも愛好者が増えたとか。

ということはブームの渦中にあったのは若い女性のようで、これをきっかけに雑誌の皇室報道が熱を帯び、そのことがさらにブームを煽ることになっていったようです。

ではなぜ、ブームになったにもかかわらず、ご成婚の年から世の親たちはわが子に「美智子」と付けなくなったのでしょうか。
まあ、容易に想像できることは “畏れ多い”という理由からでしょう。

現在のプリンセス、将来の皇后陛下の御名前を下々であるわが子に付けるなんて、ああもったいないもったいない、という戦前からの考えは民主主義になったといわれたって、十数年ぐらいで変わるわけがありません(そうした考え方は根深く、いまだ残っているもんね)。

そうそう、このブログは音楽を中心としたものでした。なんだか、なかなかそこへたどりつけないな、寄り道が多くて。仕方ないので強引に舵をきります。

文春新書に「ミッチー・ブーム」(石田あゆう著)という本があって、その中に皇太子の婚約発表にあたって、ラジオが一部の流行歌の放送を自粛したという、笑い話のようなことが書いてありました。

その流行歌のサンプルとして、神戸一郎「別れたっていいじゃないか」コロムビア・ローズ「どうせ拾った恋だもの」があげられています。

たしかにラジオでの世紀の婚約発表の直後に、
♪別れたっていいじゃないか 泣くこたぁないじゃないか
とか
♪捨てちゃえ 捨てちゃえ どうせ拾った 恋だもの

が流れてくるっていうのは、いまで考えればギャグの世界ですが、当時は大のオトナが真剣になって「やめとこ、やめとこ、アブナイ、アブナイ」ってビビッていたのです。

その本には反対に奨励された音楽についても書かれていて、流行歌では上に詞をのせた「プリンセス・ワルツ」があげれらています。

コロムビア・ローズは自粛曲と奨励曲に名を連ねたわけで、このことだけでも当時彼女がいかに売れっ子だったかがわかります。

ところでこの「プリンセス・ワルツ」、発売が32年の10月、つまり婚約が発表された1年以上も前の歌なのです。

ということは皇太子・美智子妃のためにつくられた歌ではないということになります。

ではまったくの偶然かというとそうでもなく、昭和30年あたりから皇太子の結婚問題がたびたび報道されはじめていたので、レコード会社が便乗し、それがたまたまタイミング的に合った(1年のずれはあったけど)ということでしょう。

作曲の原六朗美空ひばり「素敵なランデブー」「お祭りマンボ」で知られる当時のコロムビアレコードのエース。

作詞家の門田ゆたか西條八十の弟子、大学も早稲田の仏文というから佐伯孝夫のおとうと弟子ということに。
戦前のヒット曲に「東京ラプソディー」(藤山一郎)があります。
またいまでもうたわれているハワイアンの「月の夜は」「小さな竹の橋」は彼の訳詞。

機を見て敏なのがレコード会社と出版社。ビッグイベント、国民的行事ともなると電卓、いや当時なら算盤をはじきたおす。東京オリンピックしかり大阪万博しかり。

なら、ご成婚でも、とさがしてみたらやっぱりありました。
まず婚約が発表された2か月後、34年の1月にリリースされたのが、高島忠夫「結婚しましょ」
♪結婚しましょ あなたと誰か……

というフレーズが当時子供だったわたしの耳にいまでも残っています。音源はないのですが、さいごは
♪ふたりは結ばれる(チャンチャン)
っていう感じ。
とにかくスタンダードポップスを彷彿させる楽しい旋律で、当時売れっ子だった彼はテレビで頻繁にうたっていました。(どこかに音源がないものか)

もうひとつは34年の5月といいますからご成婚(4月)の翌月という露骨に、いや早いタイミングで出された「二人でテニスを」。あきらかに二人の出会いのきっかけをイメージさせています。これまた残念ながらYOU-TUBEにないのですが、

♪はれた青空 ボールは弾む 若い心もまた弾む 
という詞は西條八十。転調のあるワルツは上原げんと
そしてうたっているのが「別れたっていいじゃないか」を自粛された神戸一郎
思わず「罪滅ぼしかよ!」とツッコミたくなるレコード。

えー、ちょうど時間となりました。
今回は美智子妃ひとりで終わってしまいましたが、二人の婚約が発表された昭和33年の前の年には、日本の音楽シーンに画期的な「みちこ」が登場しているのです。

さらにいうならば、昭和30年代というジェネレーションを語るときに欠かせない「みちこ」があと二人います。

次回はそんな「美智子」や「みち子」のお話を。……いつのことやら。


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