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その名は●みちこ② [the name]

愛と死をみつめて1964.jpg

♪まこ 甘えてばかりで ごめんネ
 みこは とっても しあわせなの
 はかない命と 知った日に
 意地悪いって 泣いたとき
 涙をふいて くれた まこ
(「愛と死をみつめて」詞:大谷弘子、曲:土田啓四郎、歌:青山和子、昭和39年)

敗戦後、10年を経て昭和30年代に入ると、日本は驚異の復興、発展ぶりをみせます。

流行歌の世界も、男性ならキングの三橋美智也春日八郎、女性ならコロムビアの美空ひばり島倉千代子が、戦前からの古賀メロディー系のヒット曲で大衆を魅了していました。

ただ、戦前と異なるのは江利チエミ、中原美紗緒、ペギー葉山、雪村いづみをはじめとした歌手たちが欧米のポップスのカヴァーで新しい世界を気づきあげていたこと。

そんななか昭和32年、18歳の「みちこ」がカヴァーポプスでブレイクします。

ハリー・ベラフォンテ「バナナ・ボート」をカヴァーした浜村美智子

ジャマイカ発のカリプソソングも新鮮なら、茶髪のロングヘアーに露出ぎみのステージ衣装のインパクト十分。
またたくまに彼女は「カリプソブーム」とともにスターに。

しかしレコードデビューする前に、浜村美智子は知る人ぞ知る存在だったとか。

鹿児島生まれ、大阪育ちという彼女は歌手を目指して東京へ。それが高校生のとき。
もともとジャズシンガー志望で、平尾昌晃やミッキー・カーチスも通ったというティーヴ釜萢の音楽教室へ通いながら、いまでいうメジャーデビュー、つまりレコーディングの機会を待っていた。

ところがデビュー前に週刊誌にヌード写真が掲載されて話題に。
これも多分事務所あるいはレコード会社の計算だったのかもしれないが、おかげでレコード発売前に予約が殺到したとか。

そしてその32年から翌33年にかけて、シングルの発売はもちろんアルバム「カリプソ娘」を出したり、映画に主演したりとフル回転。さらにはアメリカへレコーディングに行くなど、シンデレラストーリーを地で行く活躍ぶり。

ところが2年足らずで失速。後年「一発屋」としてその名を歌謡界に留めることに。

一時元ボクシングの東洋チャンピオンとの結婚が話題になりましたが、その後離婚。
現在でも歌手活動は続けているようで、時おりTVのナツメロ番組にも顔を出している。

数年前テレビでうたっているのを見ましたが、そのときは「デーオ」ではなく中南米音楽をうたっていました。

残念ながら彼女が「ミッチー・ブーム」をつくることはできなかった。

ミッチー・ブームは前回とりあげたように、沢村美智子の人気に陰りが見え始めた頃、彼女とはイメージが180度異なる正田美智子によってつくられました。

いずれにしても、「みちこ」という名前は昭和30年代にふさわしい。

カリプソ娘に皇太子妃。それ以外にも昭和30年代を象徴する「みちこ」があと2人います。

その3人目は樺美智子
年々彼女の名前を知る人も少なくなっています。

いわゆる60年安保(昭和35年)のなかで犠牲になった東京大学の学生。
日米安全保障条約反対運動がピークを迎えた6月15日、全学連と警察隊の乱闘のなかで命を落としました。「世紀のご成婚」のほぼ1年後のことです。

そして彼女は、その死によって安保反対運動を主導した社会党よりも、全学連のリーダーたちよりもその名を知られるようになり、いわば反体制、反権力の象徴となりました。

プリンセス美智子と樺美智子は、しばしば対比して語られます。たしかにこの2人の美智子の生き方(死に方)が昭和30年代というジェネレーションの、あるいはその後の日本の女性の在り方の表裏をみごとにあらわしています。

話を歌にもどしましょう。
樺美智子や60年安保にまつわる歌はなんでしょいうか。
なかなか思いつきませんが、学選運動やデモの渦中にうたわれたであろう歌は「インターナショナル」「がんばろう」をはじめとする労働歌でしょうか。

また安保成立後の敗北感のなかでよくうたわれたというのが「アカシアの雨が止むとき」(西田佐知子)

もし樺美智子の死がなければ、この歌と60年安保の結びつきがもっと希薄だったのではないか。そんな気がします。

そして、その「アカシヤの雨が止むとき」が好きだったのが、昭和30年代後半に多くの人々の注目を浴びることになったもうひとりの「みちこ」こと大島みち子

大島みち子は骨肉腫に冒され、その若い命を奪われた女子大生。
彼女が悲劇のヒロインとして、あるいは純愛をまっとうした女性として多くの日本人にしられることになったのは、その死の直後、高校時代に知り合った河野実との往復書簡が「愛と死をみつめて」というタイトルで出版されたことゆえ。

昭和38年に出版されたその本は200万部近く売れたといわれ、当時の出版界としては空前のベストセラーとなったそうです。その書簡の中でふたりは、マコ(実)、ミコ(みち子)と呼び合った。

その手紙の中でマコが「アカシアの雨が止むとき」が好きだとミコに告げます。理由はそれをうたった西田佐知子のイメージがミコに似ているからだと。その手紙を読んだミコは自分も好きな歌だったので、そのあまりの偶然にからだが震えたと返信しています。

当然のごとく、このベストセラー「愛と死をみつめて」は映画化され、歌もつくられました。さらには類似の「純愛悲恋もの」がそれに続くというふうに。

こうなると一大純愛ブームが起こったように聞こえますが、当時はそんなことはいわなかった。当時の若者たちは、少なからず幻想の部分があったにしろ、まだ「純愛」の渦中にいたのですから。

数年前に「世界の中心で、愛をさけぶ」をはじめとする死別悲恋ものが流行したのは、これはもはや失われてしまったものへの回帰としての「純愛ブーム」でしたが。

話を「愛と死をみつめて」にもどして。

レコードは昭和39年の7月にコロムビアからリリースされます。
タイトルは「愛と死をみつめて」のままで、歌手はほとんど無名の青山和子。
それがかえって新鮮だったのか、ベストセラーとなった原作の勢いもかりて歌は大ヒット。その年のレコード大賞を受賞。

作曲の土田啓四郎は数年後、やはり純愛悲恋の実話でレコード化・映画化された「わが愛を星に祈りて」(梶光夫・高田美和)をつくることに。

「愛と死をみつめて」のレコードが発売された2か月後、同名の日活映画が封切られます。
主演はみこが吉永小百合、まこが浜田光夫という青春コンビ。
そして映画もヒット。

歌も映画も同じ年なので、青山和子の「愛と死をみつめて」が吉永―浜田の日活映画の主題歌だと思っているひとがいますが、これは全然別もの。

映画の主題歌は別に吉永小百合が「愛と死のテーマ」(詞:佐伯孝夫、曲:吉田正)というタイトルでうたっています。

「もはや戦後ではない」という言葉ではじまった昭和30年代。

それは世紀の結婚式により国民が皇室と“和解”をした時代であり、政治的国民運動が敗北した時代であり、国民が「純愛」を客観的に見たり、読んだり、聴いたりする余裕のできた時代でもありました。

ふりかえってみれば、いい時代でした。昭和30年代。

惜しむらくは、その時代の息吹を感じるには、自分が幼すぎたということ。
あと10年早く生まれていたら……と、思わないでもありません。

でも、もしそうだったら空襲で死んでたりして。


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