丘⑤春夏秋冬 [a landscape]
♪ 季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち
夢のない家を出て 愛のない人にあう
人のためによかれと思い 西から東へかけずりまわる
やっとみつけたやさしさは いともたやすくしなびた
…………
今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ
(「春夏秋冬」詞、曲、歌:泉谷しげる、昭和47年)
丘は、それまでうたわれてきたような草花に被われた快適なスペースばかりとは限らない。急な勾配があったり、瓦礫に被われている味気ない場所かもしれない。
さらにいえば、もはや丘は希望でも、夢でも、青春の舞台でもなくなった。絵空事はたくさんだ。それはある意味、「新しい人間」の「古い人間」への反意でもあった。
そんな象徴的な意味で「丘」がうたわれていたのがフォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」(昭和43年)。
元は五木寛之のベストセラー小説で、五木自身が作詞している。そのはじまりは
♪ひとりで行くんだ 幸せに背を向けて
青年は、恋人も故郷も捨てて独り旅に出るのだ。そして
♪いま朝焼けの 丘を越え
と「丘」を越えていく青年。丘の向こうにはバラ色の幸福が待っていたのではなかった。荒涼とした未開の地があったのだ。丘はまさに闘いの、試練のスタート地点だったのだ。青年はそれをちゃんと知っている。丘を越えることが目的ではなく、その先にある荒野を怖れずに行くことが生きるということなのだ、ということを。
青年が荒野を歩き始めたとたん、「丘」はそれまでの色彩を失い一瞬でモノクロームの世界に変わってしまう。
かつて丘の向こうの世界を夢見た人もいたが、丘の上に住むことを夢見た人たちもいた。
たとえば、坂本九が恋い焦がれた少女の家庭。
丘の上に住むこと、家を建てることはある意味、生存競争に勝ち抜き、今でいう下界の“負け組”たちを睥睨しながら幸福に暮らすことである。
おそらく白い家に住む少女の父親もそうして夢を叶えたのではないだろうか。
しかし、その子供である少女はほんとうにそれで満足したのだろうか。幸せだったのだろうか。
少女ではなく、丘の上に住む少年は「NO!」と言った。
泉谷しげるの「春夏秋冬」は、新しい世界を、新しい自分を獲得しようという歌である。それにはまず旧態依然とした自分の過去を含めた現状を否定し、そこから脱出することから始めようとうたっている。
「風のない丘」は季節のない街や夢のない家と同じ意味で、青年にとっては何も自分を満たしてはくれない場所、捨て去るべき現状なのだ。おそらくそこは彼の父親が努力して登りつめた場所だったのかも知れない。しかし、青年にとっては無味乾燥で、何よりも欲しかった「愛」が不在の場所。だからその丘を降りていくのだと。
そんな「愛のない丘」と知らずに、幸福を求めて登っていった若者もいる。とりわけ社会的にも自力だけでは丘の上に立つことが難しかった女性には。
彼女たちは、丘の上の白い家に住む男の元へ嫁ぐことで夢を叶えた。もちろん幸せに包まれて丘の上に住み続ける女性もいただろうが、そうでない女性だって。
おそらく、彼女もいざ丘に住んでみて、泉谷しげるが言った「風のない丘」「愛のない人」を実感したのだろう。
♪夜毎冷たいベッドで夢見る 丘を駈け降りてく夢 愛しい人のもとへ戻ってゆくがいい
「丘の上の愛」(浜田省吾)では、そんな彼女に間違いに気づいたらやり直せばいい、とうたっている。
もちろん「丘」はすべて否定されたわけではない。
♪いつか2人で登った 港の見える あの丘で君を見送るよ 「丘の上で」村下孝蔵
♪飲んで騒いで 丘に登れば はるかくなしりに 白夜は明ける 「知床旅情」加藤登紀子
のように従来の意味でのノスタルジーや青春賛歌としての「丘」もあったのだが、「丘の幻想」がくずれ、夢から覚めた人たちがいたことはたしか。
最近の歌で「丘」はどう歌われているのだろうか。数少ないわたしにとって聴いたことのある“新しい歌”を見た限りでは、
♪手をつないだら行ってみよう あやしい星の潜む丘に 「今夜月の見える丘に」B’z
♪いつか時が流れても かならず出逢う場所 「丘の上の物語」星野真里
♪0の丘に立てば 果てしない∞の夢叶うよ 「0の丘∞の空」遊佐未森
というように、藤山一郎の「丘を越えて」や平野愛子の「港が見える丘」と本質的にはあまり変わっていない。
もしかしたら今の時代にふさわしい「新しい丘」の歌があるのかもしれないが、その一方で希望や夢、青春のステージ、あるいはノスタルジーといった昔からうたわれてきた「丘」がある。そうした「丘」のイメージはこれからも流行歌の普遍的なキーワードとしてうたわれていくような気もする。
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