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その名は●ケンさん番外編① [story]


そういえば、わたしにも「ケンちゃん」がいました。
いや、“ちゃん”なんて呼んだら怒られちゃう。わたしの母の弟、つまり叔父さん。謙治さん。死んだわたしの父親が「ケンちゃん」って呼んでました。

そのわが愛すべき謙治さんのことを少し。

「ケンちゃん」、4人姉弟の末っ子。上三人はすべて女。
そんなわけで、母親にめいっぱい甘やかされた。おまけに、父親は生まれたときには何処かへ蒸発、その顔もしらない。

諸もろ条件重なりまして、ケンちゃんみごとに“不良道”へまっしぐら。
中学の頃には、芋版をつくり親の郵便貯金を引き出しては仲間に大盤振る舞い。手先が起用というか、郵便局がユルかったというか、のんきな時代ではありましたが。

中学は1年で“卒業”。親のツテで勤めたところは町いちばんの酒問屋。ところが半年も経たずに出入り禁止の放逐処分。
なんでも、毎日のように酒瓶を“お持ち帰り”になっていたのがバレたとか。

ケンちゃん、一杯呑めば顔が火事場の金時になってしまうほどの下戸。みんな友達に呑ませるための悪行。とはのちのちの本人の言い訳。姉三人の女性陣に言わせると「知り合いに売って金にしていた」とか。

母親のなりふり構わぬ謝罪で警察沙汰だけは免除。そしたらケンちゃん、3日も経たずにトンズラ。なんでも友達を頼って大阪へ行ったという“らしい話”だけ残して、その行方は知れず。

戦争が終わり、復員兵は還ってもケンちゃんは帰らず。母親「岸壁の母」(菊池章子)ならぬ“癇癖の母”に。結局、母親が死んでも行方は不明。
生きているやら死んでいるやら。姉たちいわく、
「空襲で死んだのなら連絡があるはず。多分また悪さして刑務所にでも入ってるんじゃないかい」

女のカンは鋭い。半分当たり。
ケンちゃん、刑務所ではなく療養所に入っていた。それが分かったのが戦後も10年以上経った頃。昭和30年代。もはや戦後ではないって。
結核がようやく癒えて、めでたく退院とあいなりにけりだったが、なんでも身元引受人が必要。ケンちゃん、15の歳に迷惑をかけた肉親には、金輪際会うまいとの決意で故郷をでたのだが、背に腹は代えられない。

わたしの母が身元引受人として大阪へ。
それからケンちゃんは我が家の住人とあいなりました。すぐに仕事もみつかり社会復帰成功。

とにかくケンちゃんは明るい。おしゃべりでいつも笑っている。それに気前がいい。パチンコで取ったといっては父には煙草を、母には缶詰を、われわれ子供にはチョコレートやキャラメルを。おまけに月末になると、「少年」「冒険王」「ぼくら」「少年画報」といった月刊誌をどっさり買ってくれる。わたしの自慢の叔父さんなのでした。

あるとき、わたしと二人だけになったとき、そっと1枚の写真を見せてくれた。そこにはみめ麗しき女性が写っていました。
「…………」
『叔父さんの、彼女さ……』
「結婚するの?」
『まあ、そういうことになるんじゃなかろか……』
そういってケンちゃん、ワハハと大笑い。

なんでもその彼女、会社の同僚だとか。ケンちゃん職場でも人気者らしく、就職して1年あまりにして組合の会計を任されるまでに。
悪ガキだった頃しか知らないわたしの母親は大喜び。やっぱり姉弟。
30もとっくに杉林、あとはその彼女と身を固めてくれればと。

それから数ヵ月後の白昼のこと。
わたしが外で友達と遊んでいると、ケンちゃんが大きな風呂敷包みを抱えて家から出てくるではありませんか。夜勤明けで遊びにでも行くのかなと思い「叔父さん」と声をかけると、わたしに気づいたケンちゃん、その表情にいつもの笑顔はなく、見たことのない暗く悲しげな。顔をそむけると何も言わずにスタコラサ。

その晩、家は大騒動。
タンスの中の父親と母親の洋服や着物が根こそぎ蒸発。まるで手品かイルージョン。ただ、子供のものは無事でした。わたしの証言で、犯人即判明。

騒ぎはそれだけでは終わらない。数日後、ケンちゃんの勤めている会社から「一週間無断欠勤だが」という連絡。おまけに、組合の積立金が消えていると。

結局、再び三度、姉連が尻ぬぐい。組合に弁償して、なんとか警察沙汰はまぬがれた。もちろんケンちゃん、煙のように消えちゃった。
「もう何があっても関わらない、あの男とは縁切りだ」と姉たちの怒りはごもっとも。

それから10年。
ケンちゃんが突然帰ってきました。それも自分から。抱えきれぬほどの土産を持って。

ケンちゃん自ら“出頭”ではなく、迷惑をかけた姉たちの前に現れるというのだから、よっぽどの事情が。

ケンちゃん、あれから全国各地を転々とし、数年前から東京郊外のある街に住んでいたそうです。そこでなんと、調理師の免許を取って小学校の給食の賄い人として働いていたのでした。そして知り合ったのがチャコちゃんではなくて、泰子さん。

泰子さん、小学生の男の子と女の子を持つ地主のひとり娘。数年前に旦那さんと死に別れ。やはりパートで給食の賄いに勤めていたとき、ケンちゃんとご対面。
二人は意気投合。ケンちゃん、泰子さんの家へも何度か招かれ、天性のペテン師トーク、いや明るさで、子供たちにはもちろん、お祖父さんにも好かれるという離れ業。

婿養子の話がトントン拍子。
「疑うわけじゃないけど、ご親族の方々と一度……」
と、向こうのお祖父さん。ケンちゃん少しも慌てず、ニコニコ顔で、
「ごもっとも、仲良くしている姉たちがおりますので」と。

そんなわけで、“視界不良の森”からご帰還あそばれたというわけ。
わたしの母や父に土下座して、涙を流して慚愧の謝罪。そういう事情なら、許さないわけにはいかないではないですか。それでも姉のひとりは、
「きっと先方の財産目当てだよ。そのうち大変なことが起きるよ。いつもそうなんだから」
と、ケンちゃんの更正ぶりを信じない。

そんな懸念もどこへやら。無事祝言をあげての新世界。
苗字も変われば気持ちも変わる。仕事一筋。趣味といえばたまのパチンコ。それも夫婦そろって。

そんなこんなでまた10年。子供も成人し、兄は自動車整備士の見習い。妹は早々と結婚。
義理ではあるけど、愛娘を嫁がせ、ひとつ肩の荷をおろしたその年の冬のこと。

草木も眠る丑三つ時。突如わが家に鳴り響く電話のベル。
泰子さんから。「ケンちゃんが死んだ」と。

仕事から帰っていつもの晩酌。そのあと軽くひと風呂と、風呂場へ行ったまま。家族が気づいたら浴槽の中に沈んでいたって。
いい気持ちでつかっているうちに突然の脳溢血。そのままブクブクブク……。
そのまま50数年の人生のTHE ENDとあいなったのでした。

葬儀のあと姉連は話し合いました。
「あんなチャランポランな弟だったけど、さいごは家庭も持てて、いいところに収まって幸せだったんだろうね。人生なんてコツコツやれば晩年いいことが待っているとはかぎらないんだねぇ。チャランポランやっててもうまく帳尻合わせちゃうんだから……」
「そうだよ。謙治はいいときに死んだよ。あれで生きてたら、また何かやらかして蒸発なんてことにもねえ」
一同、同意の大爆笑。姉たちの笑いはケンちゃんのいい供養になった、よね。

「幸せなうちに死んで良かった」と姉たちは言うけれど、わたしはやっぱり長生きしてほしかった。そして、むかしの“悪行”話を肴に盃のやりとりをしてみたかったなぁ。
照れたケンちゃんは、例のワハハという笑いでごまかしたのかもしれませんが。

とにかく今で言う“小(チョイ)ワル”ではなく、犯罪に鈍感な小悪人間だったケンちゃん。ホントに改心したのがどうかは誰にもわかりません。
ただ、あの笑顔と人なつっこさで多くの人に好かれた(姉たちにいわせると、女子供と老人にだけだと)のは事実。そして、コソ泥のように狡っ辛いことはしたけれど、人に危害を加えることはもちろん、他人を罵(ののし)るようなことは一度もない人生でした。

わたしとひとつ屋根の下で暮らしていたのは、ケンちゃん30代の頃。それよりも齢を重ねてしまったわたしだが、今その30数才のケンちゃんを“見る”につけ、「オモロイやっちゃ」と思うのです。まあ、とにかくわたしには“いい叔父さん”でした。


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MOMO

サミイさん、はじめまして。

nice!をどうもありがとうございます。
by MOMO (2008-01-23 22:36) 

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