●道 [a landscape]
♪ ふり向かないで ドアを閉めていって
あなたの醒めた愛を いたわりに変えないで
許してあげる 心変わりなんて
あなたの好きな人を ひたすらに愛してあげて
どれだけ 愛したか それだけが すべてだから
私は大丈夫 こんなに元気よ
ジェルソミーナの歩き続けた 涙とそよ風の道を
わたしも今 歩きはじめる 両手を広げて
(「ジェルソミーナの歩いた道」詞:角谷憲二、曲:丹羽応樹、歌:テレサ・テン、昭和56年)
駅まで歩いて10分あまり。
道はほとんど一直線で、夏の太陽の軌道をなぞるようにつくられている。おかげで、朝から入り日の時間まで、道沿いに建つ家々の影がほとんど通りに延びてこない。灼熱の日など、一歩外へ出たとたん戦意喪失。
これが冬も同じならまだ我慢もするが、冬の太陽の軌道は意地悪くずれて、朝は片側の建物の影が道を横断してしまっている。おかげで寒さに震えながら駅へ向かうことになる。
こんな道だが、途中にはみごとな藤棚の公園があったり、たまに入る蕎麦屋があったり、愛想のいいクリーニング店があったり。はたまた面倒臭そうに吠える犬のいる民家の庭があったり……。いつかこの町を離れることがあって、それから何年か後には、やっぱり“いつか来た道”として記憶に刻まれていくのだろう。
小学校へ通ったあぜ道。高校へ通じていたアーケード通り。足どり重く会社へ通った切り通しの坂。彼女のアパートを訪ねた茶畑の道。あるいはチャン・イーモウが描いた「初恋の来た道」。誰にでも、そんな思い出の道があるはず。
それぞれの道は、その道幅やカーブの度合い、あるいは道沿いの並木や建物が、その時代の自分の心象風景とともに記憶されている。
つまり、そうした「道」とは人が歩きやすいように整地された地面というだけではなく、その人が生きてきた人生や、そのプロセスがダブルイメージされている空間であり時間なのである。
とりわけ流行歌の中に出てくる「道」はそういうケースが多い。
上にあげた「ジェルソミーナの歩いた道」もそう。
心変わりした男を解放してあげ、なおかつ自分も前向きに生きていこうという、現実的にはかなりキビシイ女の気持ちを、ジェルソミーナの優しさに託して歌っている。
“ジェルソミーナ”とは映画ファンなら知っているフェデリコ・フェリーニ監督の『道』(昭和32年公開)のヒロインの名前。映画は少々頭の回転が遅いジェルソミーナが、乱暴者の曲芸師と一緒になり、サーカス団とともに旅をしていたが、やがて捨てられ病気で死んでしまうというストーリー。シナリオもいいが、とにかくいつも明るく前向きで、そのくせ不幸の影を背負っているといういじらしいジェルソミーナのキャラクター。演じたのはフェリーニの奥さん、ジュリエッタ・マッシーナ。
決して美人ではないが、ファニーフェイスで表情豊かで、おまけに純粋無垢なジェルソミーナの不思議な魅力、その白痴美に魅了されてしまった男は多かったはず。音楽も良かった。キネマ旬報かどこかは忘れたが、その年のベストテン1位になったはず。
その魅力がどれだけのものだったかは、映画から20年以上経って、流行歌の「ジェルソミーナの歩いた道」がつくられたことからもわかる。映画でジェルソミーナが生きた人生を、♪涙とそよ風の道 とたとえた歌詞は、よく言い当てていると思う。テレサ・テンの美声もよくあっている。
「道」というタイトルはよほどインパクトがあるのか、いくつもの歌がある。まずボニー・ジャックスのロシア民謡があるし、演歌では五木ひろしと神野美伽が歌っている(別の歌)。また日野てる子、木の実ナナにもオリジナルがある。比較的新しいところでは、別れた男と歩いた道を、思い出にひたりながらひとりで歩いているという森高千里の「道」があった。
もし、失恋して女性不信になったという男性がいたなら、この『道』を観ることをすすめたいな。きっと「あゝオンナって素晴らしいな」などと思ってしまうはず。
でも昔の映画だからって?。うーん、いまの若者でも通じる普遍性があるような気がするのだけれど。
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