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【モーション】  [obsolete]

 

『……彼女との結婚について聞かれたら、「彼女は利口な女だから、結婚を口実に楽団を退くつもりで自分にモーションをかけて来たのだ。最近になって自分にもそれがわかったけれど、落ち目になりかかった女を捨てるのは寝ざめが悪いから、彼女から正式の申し入れがあれば受け入れるつもりでいる」っていうようなことを言ったらしいわ』
(「黒いリボン」仁木悦子、昭和37年)

「モーション」motion 意味は〔運動、活動、行動、動作〕などだが、この頃使われていたのは、もっと具体的な意味で、主に異性に対して「自分をアピールする」とか「言い寄る」「口説く」といった意味に近い。現代で言えば、“ナンパ”も「モーション」のうちだろう。いまでも“逆ナン”があるように、「モーション」も男から女への一方通行ばかりではない。曽野綾子の「春の飛行」(昭和32年)には
〈……男っていうものは……女にモーションかけられたからって、なびくもんじゃない〉という描写がある。
こうした意味で使われていたのは戦前からで、昭和5年の“モダン用語事典”にはそうした意味では書かれていないので、それ以降からだろう。用法は上の“引用”にあるように、「モーションをかける」という言い方で使われた。「モーション」だけに、牛の小便だなんて、冗談にもなったほどだが、近年はあまり耳にしない。というより、昭和でも40年代に青春を送った若者たちは、先輩の話で耳にすることはあっても、自らは使っていなかったのではないだろうか。

仁木悦子(本名、大井三重子)は、58歳で生涯を閉じているが、その間、病気との闘いだった。3歳で胸椎カリエスを発症し、寝たきりの生活がはじまる。不孝は病気だけではない。7歳のときに父・光高、13歳のとき長兄・栄光、15歳で母・ふくをそれぞれ亡くしている。いずれも戦時中のことだった。そうした暗い時代にあって、病身に加えて度重なる家族の不孝という試練を支えたのは、学校へ行けない妹に家庭で勉学を教えた次兄・義光の存在だった。17歳で終戦を迎えた三重子は疎開先の富山から東京へ戻り、義光の家族とともに生活する。「黒いリボン」まで続く仁木兄妹シリーズは、そうした兄への感謝と尊敬の意味合いを含んでいると考えられないこともない。
そして、25歳から童話を書き始め、2年あまりで「母の友」「婦人朝日」といった雑誌に作品が掲載されるまでになる。その頃から推理小説への希求はあったようで、28歳で「猫は知っていた」をかき上げ、翌年、同作品で江戸川乱歩賞を受賞する。仁木悦子というペンネームを使い始めたのはこの時から。その後、多くの推理小説および童話を書き上げていくのだが、その間も病気との闘いは続いていた。
数度の手術により、ようやく車椅子での生活が可能になったのは30歳のときだった。悦子の人生のハイライトともいえる時代で、34歳で療養所で知り合った後藤安彦と結婚している。寺山修司と親交を持ったのも療養所時代だといわれている。
病気というハンデを背負いながら奥の作品を残した仁木悦子だが、たんに闘病と小説の世界だけに生きていたわけではない。自ら女流推理作家団体を立ち上げたり、動物愛護の団体を結成したり、医療問題で抗議の座り込み参加したりと、社会人としても精いっぱいの活動をし、58歳の生涯をまっとうしたのである。


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