SSブログ

《マラソン》 [deporte]

♪ ある日 走ったその後で
  僕は静かに 考えた
  誰のために 走るのか
  若い力を すり減らし
  
  雨の降る日も 風の日も
  一人の世界を 突っ走る
  何のために 進むのか
  痛い足を がまんして
(「一人の道」詞:今江真三郎、曲:茶木みやこ、歌:ピンク・ピクルス、昭和46年)

今日は別府大分に青梅とマラソン日和。今年の世界選手権、来年の北京五輪に向けて、代表選考が熾烈になってきた。
とりわけ高橋尚子、野口みづきとオリンピック2大会連続金メダルの女子は、層が厚くハイレベルの競争が続いている。日本女子の“マラソン王国”は頼もしい限り。
それにひきかえなんとも情けないのが男子。
今日の別府大分では、ベテランの藤田敦史が、上手なレース運びで優勝。世界選手権の“チケット”を手にするとともに、北京五輪にも一歩近づいた。それにしても2時間10分台というタイムは、天候のコンディションを考えても平凡。マラソンはタイムではないとはいえ、とても世界に通用するとは思えない。
そんな低迷中の男子マラソンだが、かつては精鋭たちによって活況を呈していた時代があった。
戦後、マラソンが注目されはじめたのは昭和28年、ボストンマラソンで山田敬蔵が世界最高記録を出して優勝してから。その3年後のメルボルン五輪で、川島義明が5位に入賞。期待された次のローマ大会では入賞を逃したが、実はこの大会でさらにマラソンが注目されることとなった。42キロ余を世界最高記録で制したのは無名のアベベ・ビキラ(エチオピア)。覇者が裸足であったことも世界的な話題になった。
4年後に東京大会を控えていたこともあり、日本でもアベベの名は急激に普及していたテレビに乗って全国に広まった。同時にマラソンでも、寺沢徹が世界最高記録をマークするなど世界レベルの競技として期待が高まっていった。
そして、昭和39年の東京オリンピック。見事期待に応えて陸上競技で戦後初のメダリストになったのが円谷幸吉である。あの国立競技場でのヒートリー(イギリス)に抜かれて3位になったシーンは、当時、競技場あるいはテレビで見ていた人間にとっていまだに記憶に残っているはずだ。そして、次のメキシコ大会を迎える昭和43年、印象的な遺書を残して、27歳という若さで自ら死を選んだことでも円谷の名は多くの人の記憶に刻まれることとなった。
そのメキシコ大会では、君原健二が銀メダルを獲得、あと一歩までたどり着いた。しかし、その後は宇佐見彰朗、瀬古利彦、中山竹通などの名ランナーがオリンピックに挑んだが、現在に至るまでメダルには届かないでいる。
最近の新聞に、郷里の福島県須賀川市に円谷幸吉の遺品を展示したスペースが設けられたと報じられていた。

「一人の道」はその円谷幸吉の悲劇を歌ったもの。
マラソンの歌はいくつもあるらしいが、実録でしかも、個人の悲劇を歌ったものはめずらしい。マラソンに限らずスポーツでもそういう例はない。オリンピックのメダリストという栄光と自殺という、あまりにも落差の大きい人生がドラマチックだったのだろう。なお、東京オリンピックの出場者では80メートルハードルで5位に入賞した依田郁子、柔道重量級の金メダリスト、猪熊功がのちに自ら死を選んでいる。
ピンク・ピクルスは京都出身の茶木みやこ小林京子のフォーク・デュオ。デビューは昭和46年「僕にさわらせておくれ」。翌年解散。「一人の道」が最大のヒット。解散後、茶木みやこはソロとして活動。現在もコンサートを中心に歌っている。


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

[コロッケ]UNFORGETTABLE① ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。