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Johny Get Angry [story]

♪ りんごの花ほころび 川面にかすみ立ち
  君なき里にも 春は忍び寄りぬ
  ……
  カチューシャの歌声 はるかに丘を越え
  いまなお君を訪ねて やさしその歌声

「カチューシャ」(曲・ブランテル、訳詞・関鑑子、昭和23年)。60代前後の人たちには強い愛着があるロシアの歌です。戦後、『歌ごえ運動』だとか『歌ごえ喫茶』なんていうのがあって、「黒い瞳」「トロイカ」「赤いサラファン」など多くのロシアの歌が歌われ、巷に広まっていきました。訳詞の関鑑子さんはその歌声運動の主宰者でした。戦後、まるで堤防が決壊したというか、綿が水を吸うようにというか、外国の音楽が日本になだれ込んできました。ロシアの歌もそのひとつです。
ところで、カチューシャはてっきりロシアの民謡かと思っていましたが、そうではないようです。作られたのは第二次大戦中の1942年といいますから、さほど古くはない。といっても60年以上経っているのですが。またその訳詞も、古い学生歌集などを見ると関鑑子ではなく、赤岡佐太郎になっています。詞も1~3番ともに前半は同じなのですが、後半が違っています。たとえば、1番なら ♪君なき里……ではなく、♪春風夢をさそい 雲は流れて行く というふうに。はじめから2種類あったのか、途中から変わったのかわかりませんが、この謎は専門家に解いてもらうしかありません。

20歳を少し過ぎた頃、ちょうどモハメド・アリがキンシャサで奇跡を起こした年、わたしはある化学工場で働いていました。資材課、といえば聞こえがいいのですが、要はドラム缶で運ばれてくる材料の溶剤を仕入れ、現場へ提供するという仕事。日照りが続こうが、雪が降り積もろうが、年がら年中屋外でドラム缶を転がしていたのです。
同僚は先輩でもある40代のUさん。無口で少し吃音があるせいか、上司(課長と係長のアホアホ迷コンビだった)からよく苛められていました。休みの日に何度か碁を打ちに(習いに)彼の家へ行きました。何局か打ち終わり、「じゃあこれで……」とわたしが言うと、「まだいいじゃないですか」とUさん。そして夕食をご馳走になるのがいつものきまりでした。同じようにもの静かで知的な雰囲気の奥さんと三人での食事は、ひとり暮らしのわたしにとってはとても楽しい時間でした。Uさんは奥さんを「キミ」と呼びます。なんだかインテリジェンスが感じられ、とてもいい響きでした。わたしもいつか愛する女性をそう呼んでみたいと思いましたが、いまだに実現していません。
そのように、家庭では主人として愛妻家として、存在感を示していたUさんですが、会社へ来ると口数は少なく、自分を主張しない。上司のイジメの絶好の餌食になってしまうのです。いわれのない叱責を受けたり、馬鹿にされたりしてもただ笑みを浮かべて黙っているUさん。傍にいて歯がゆくなるほどでした。そのまったく存在感の薄いUさんですが、一度だけ周囲に強烈な印象を与えたことがありました。
忘年会で、歌を強要されたUさん、困りながらも歌い始めたのがこの「カチューシャ」。お世辞にも上手ではありませんでした。でも驚いたのは二番に入ったとたん、
♪ ヴィハヂラ ナベレカチュシャ…… 
とロシア語で歌い始めたこと。急に歌い手が代わったのではないかと思うほど力強く、朗々と歌い上げていました。課長の顔をのぞき見ると呆気にとられたマヌケ面。私はなぜか心の中で快哉を叫んだものでした。

人づてにUさんが某国立大学卒だということを聞かされたのは後のこと。その彼がなぜ私と同じ肉体労働に従事していたのか、はたまた「カチューシャ」にどんな想い出があったのか。とうとう聞かないまま、私はその会社を辞めてしまいました。


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