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【発疹チフス】 [obsolete]

『「発疹チフスで死んじゃった。未亡人って簡単になれるのね。僕がけしかけたから責任があるでしょ。だからそのひとを引き受けてやることにしたの」
「あら、変なはなし」と私の家内は言った。
「そうね、僕も変だと思う。だけど変でもいゝでしょう。変でない結婚なんて、無いよ。結婚ってみんな変だと思うの。そうじゃない?……今度連れてくるからお友達になってね。ちょっとイットがあって、色っぽいの。そこが良いんだ。それ丈が取り柄。ほかは何もないんだけど、おかしいでしょう?」』
(「自由詩人」石川達三、昭和31年)

チフスtyphusには「発疹チフス」のほか、腸チフス、パラチフスがある。いずれも隔離、届け出が必要な法定伝染病だが、医学上はそれぞれまるで異なる病気なのだとか。腸チフス、パラチフスが細菌からの感染によるものなのに対し、「発疹チフス」はリケッチア(細菌とウイルスの間ほどの大きさの微生物)による。症状は発熱と、名前の通りの発疹で、媒体は主にシラミ。シラミは不潔な場所に発生しやすく、戦争直後どの家庭にも同居していた。おかげで発疹チフスは大流行した。しかし治療やDDTをはじめとする防疫処置が功を奏して患者は劇的に減っていく。そして昭和31年の1例を最後に、半世紀あまり患者は現れていない。ところが、それから20年あまり経つと、そのDDTが残留毒性の強さで追放されてしまう……。薬は毒というけれどコワイ話である。

「自由詩人」は戦中、そして戦争直後の話。主人公は“私”の古くからの友人である詩人。
学生時代は無口で哲学的な男だった。教師になりその“不潔”さを知って人生の逆説を楽しむようになった。教師を辞め結婚した。そしてひと月で別れた。
詩人はときどき“私”の家へやってくる。ビールを飲み“私”の煙草を吸い、女房を褒め、詩集が売れたら家を建築することを話し、最後に借金をして帰っていく。もちろん借金は返ってこない。そして、ほとぼりがさめた頃、またぶらりとやってきてデジャヴのようなことが起きる。戦時中、招集もされず、国家とも戦争とも無縁の自由詩人だった。
引用は、戦後、詩人が3回目の結婚をすることを“私”の妻に話しているところ。やがて詩人に女の子と男の子が生まれる。詩人は男の子を絵描きにするのだという。それでも相変わらず借金をしにあらわれる。そのうち、3番目の妻は女の子だけを連れて出て行く。50ちかくなった詩人は、今度は20歳そこそこの赤毛の少女と結婚するのだという。
しばらくすると、詩人の弟が訪ねてくる。兄の葬式代を借りに来たのだ。詩人は子供を道連れに服毒自殺したのだった。最後の詩は、苦しむ我が子が自分に助けを求める様子を書いたものだった。
“私”と家内は詩人の葬儀をすませ、火葬場の煙突が見えてくると、ともに涙をこぼさずにはいられなくなるのだった。
「自由詩人」は多くの人間がどこかに隠し持っているだろう破滅志向を抽象して、主人公の詩人に託し描いた物語である。明治、大正、そして戦前の昭和にはまだ生息が可能だった破滅型人間が、戦後、民主主義の到来によってチフスと同じように撲滅されていった。皮肉なことだが、民主主義によって自由が圧殺されたとも言える。


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【あ・じゃぱあ】 [obsolete]

『「うそ。アンダア・ドッグどころか、ブルドッグだわよ」
「あ・じゃぱあ!」
と、三十二にもなる譲次は、いま流行の、ふざけたスラングを弄しながら、
「うふふ。ブルドッグか。ひでえことになっちゃったな。しかし、ブルドッグだって、 相手次第でアンダア・ドッグにならぬとは限らねえや。――ひとつ、噛みついてみせて やろうか」』
(「負け犬/アンダア・ドッグ」井上友一郎、昭和28年)

「あ・じゃぱあ」か「あじゃ・ぱあ」か「あじゃぱあ」か。いずれにせよ、昭和20年代後半の流行語である。俳優の伴淳三郎が発信者。驚いたときに使う言葉で、「あじゃ」は東北弁で「あれ、まあ」の意味、「ぱー」はお手上げという意味だそうだ。この流行語で伴淳三郎は一躍“全国区”の喜劇俳優となり、主演の映画「アジャパー天国」、「名探偵アジャパー氏」まで作られた。いかにこの言葉が日本全国津々浦々まで浸透したかがわかる。子供たちまで使っていた。内海突破の「ギョッ」(これも驚いたときに使う)とともに戦後の二大ギャグだとする本もあった。「ギョッ」はなんとか延命だが、「あ・じゃぱあ」は完全に廃語となってしまった。

同棲しているふたりはともに銀座裏で生きている流しのヴァイオリン弾きと、キャバレーのダンサア(客の指名でチップを稼ぐ)。男は喧嘩ばかりして商売にならない。女は他のダンサアのように身体で商売をしないので、売れっ子順位も下位に低迷。ふたりはお互いに自分が負け犬だと思っている。そのくせ相手の仕事ぶりが歯がゆくて喧嘩ばかりしている。
上の引用は女の勤めるキャバレーのオーナーが選挙に出ることになり、ダンサアたちに自分の名前入りの浴衣を着せるなど選挙違反まがいのことをしていることに腹をたて、落選を願う女と、ゆすって金でも出させようとする男の会話だ。談判に言った男は結局、キャバレーのバンドマンに採用され、取り込まれてしまう。そのことも女には許し難いこと。
ラストは、朝、ふたりで歯を磨きながら、オーナーが落選すると二人とも失業するのではないかという話になり。「一票入れてやろうか」という会話で終わる。その軽さが、くすぶりながらもしぶとく生きている二人を象徴しているようで面白い。
井上友一郎は戦前「残夢」「夢去りぬ」(いずれもダンサアが出てくる)で注目を浴び、戦後は「銀座二十四帖」、「女給夕子の一生」などホステスを描いた“銀座もの”を多作していく。


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【G・I刈り】 [obsolete]

『……細長い足にピッタリくっついた黒のズボン、青いラバーソールの靴、上半身の方は、襟に毛のついたグレイのジャンパー、その下がうす茶のスウェーター、スウェーターの胸元からは黄色い毛のシャツがのぞいている。頭はボサッとしたG・I刈りだ。』
(「寒い朝」石坂洋次郎、昭和34年)

引用したのは主人公三輪重夫の出で立ち。高校三年生ということだが、かなりオシャレだったようだ。ズボンはマンボ風だし、ラバーソールも当時のマンボ・スタイルの必需品。それにしては小説の中の重夫はイカレてない真面目学生。
「G・I刈り」のGIとはGovernment Issue(アメリカの徴募兵)のことで、彼らの多くがしていたヘアスタイルがGI刈り、あるいはGIカット。今で言えばスポーツ刈り(これも言わないか)。とにかく短いのだが坊主刈りでないのが格好良かった。日本でも流行ったが、本場の徹底したスポーツ刈りではなく、前髪を少しのばした和風だったようだ。当時の芸能人では橋幸夫がデビュー当時そんな髪をしていた。その他、角刈り、大工刈りも男の短髪を言った言葉だが、今ほどへアスタイルにそれほどヴァリエーションのない時代だった。エルヴィス・プレスリーが自身が主演した映画「GIブルース」で同名の主題歌を歌っている。日本でも坂本九や佐々木功によってカヴァーされた。

「寒い朝」は石坂洋次郎お得意の屈託のない青春ストーリーで、「週刊現代」に連載された。
主人公の重夫とヒロインのとみ子はお互いに大学受験を目指す仲よしの同級生。重夫は医者の父との父子家庭。とみ子は洋裁学校を経営する母との母子家庭。その4人が織りなすひと冬の物語。とみ子の急病、重夫を怒らせた作文事件、重夫ととみ子の家出騒動など問題山積。しかし結末は予想に違わずハッピーエンディング。
この作品は日活で映画化。吉永小百合がヒロインを演じ、主題歌も歌った。重夫役は吉永小百合の名コンビ浜田光夫。


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Pretty Boy Floyd [story]

♪ 聞いてちょうだい ここに座って
  でも でも 内緒にしといて
  あなたと 離れられない
  影になりたい 踏まれてもいい
  いままで黙っていたけれど
  ほんとは あなたが欲しい
(「あなたが欲しい」詞・林みずえ、曲・山路進一、歌・大信田礼子他、昭和44年)。

昭和44年、カルメン・マキの「時には母のない子のように」のB面として発売。その後48年に大信田礼子が歌った。大信田礼子は他に「同棲時代」のヒット曲がある。朝丘雪路も歌っている。個人的には大信田盤がBEST(歌のの下手さ加減が妙なリアリティを生んでいる)。ハプニングス・フォーのものは同名異曲。
詞にはそこはかとない同性愛(レズビアン)のにおいがする。主人公は女。その恋人である“あなた”は2番で「薔薇のくちびる」を持っているとか、「睫毛ふるわせて」とか、男とは思えない歌詞が出てくる。作詞者の林みずえは何者なのか、正体不明。山路進一は、昭和30年代後半から40年代にかけて活躍した作曲家で、他には舟木一夫(「北国の街」)や北原謙二(「忘れないさ」)の歌を作っている。

そのアルバイトを採用したのは1週間前だった。
名前は吉元勇人という大学生。細身で小柄なからだつきは19歳には見えなかった。髪は天然ウェーヴのセシルカット。小さな顔で、切れ長の目の下に広がるそばかすという面立ちは、ミア・ファーローによく似ていた。声のトーンも高く、話す言葉も優しい。青年というよりはむしろ少年、いや少女という感じだった。

わたしはこの店の店長。女子大を出て3年。と言うととても優秀に思われるかもしれないが、たんに縁故。叔父が経営するレストランチェーンの数店舗をまかされているだけ。
金曜日、仕事が終わるとわたしは、社員達を行きつけのレストラン・バーへ誘う。月に一度は慰労を兼ねて社員の話を聞いているのだ。これも仕事のうち。まあ、めったにないけど、たまにはつまみ食いもする。もちろん後腐れのない相手とだけど。
数店舗あるので、ほぼ週一で飲み会を開いていることになる。

その日はアルバイターも誘った。そのなかに勇人もいた。
飲み会ははじめこそ、わたしが主導権を取って、社員の不満や希望を聞き出すのだが、誰だっていつまでも仕事の話では白けてしまう。そのうち、あちこちで話の花が咲き始め、わたしはお役御免となる。そんなとき、たいがいは隣に坐った社員とあたりさわりのない話で時間をつぶす。その日、わたしの隣に坐ったのは勇人だった。

「文学部だって? 就職先が大変でしょ?」
「そうかな。大学は遊びみたいなもんだから……」
「そうかぁ。卒業したらお嫁に行くのかな?」
「やだなあ、店長さんたら……」
「じょうだん、じょうだんよ。でも、店長さんってやめてくれない、仕事じゃないし」
「あ、すいません」
「お家、老舗のおそば屋さんだったわよね。あとを継ぐの?」
「あんまり、やりたくないんですけど、他にいませんから……」
「ホント、兄弟いないんだ?」
「いえ、妹なんですけど、ふたりいるんです」
「なんだ、三姉妹ってこと?」
「また言う、尚美さんたら、もう……」

わたし達はその日の1時間足らずのお喋りですっかりうち解けた。勇人がわたしを気に入ってくれたのは、次の日の仕事中、わたしに見せた彼の笑顔と挨拶の抑揚でわかった。
次の金曜日の夜、他の店の飲み会だったが勇人にも声をかけた。思ったとおり、かれは喜んで着いて来た。

わたし達はまた隣同士で、喧噪の中ふたりだけの会話を楽しんだ。同席した社員には勇人がわたしのペットに見えていたかもしれない。
午前2時過ぎ、飲み会は散会した。わたしはいつものようにタクシーでマンションへ帰った。いつもと違っていたのは勇人が一緒だったこと。

目が覚めて時計を見るとまだ午前4時半だった。わたしはパジャマに着替えて、床に敷いた蒲団の上で寝ていた。ベッドを見ると勇人がトレーナーにパンツという姿で背を向けて寝ていた。そうだ、部屋へ戻ってきて、帰るという勇人を強引に脱がせて、ベッドに寝かしつけたのだった。思い出した。
わたしは起きあがり、着ているものをすべて脱ぎ捨てて勇人の背中に貼り付いた。男の背中を抱いたことは何度もあるが、そのどれよりも華奢で柔らかく不思議な触覚だった。勇人が言葉にならない息を吐きながら身体の向きを変えた。うす目でわたしを見て、
「なんだよぉ……」
と言って、わたしの肩を少し押した。その腕をわたしの首のうしろに回させ、唇を彼の半開きの唇に押しつけた。彼はもう抵抗しなかった。

そんなことがあっても職場での彼は、変わることはなかった。変わったのはわたしだった。仕事中の彼を見ているだけで堪らなく抱きしめたくなることがしばしばあった。じつは、あの夜、勇人の男性の機能は役割を果たさなかったのだ。それでもわたしはキスをしながら、彼のスレンダーなからだを抱きしめているだけで満足していた。男ではなくかといって女でもない、中性としか言いようのない勇人の不思議な魅力の虜になっていた。それはもはや魅力と言うより、魔力だった。

次の金曜日の夜中、いつものように飲み会を終えて、わたしは勇人をマンションへ誘うつもりだった。わたしはいささか酔っていた。そして彼の耳元でささやいた。
「さあ小鳥ちゃん、オヤスミの時間よ」
「尚美、ごめんね。今夜はだめなんだ……」
そう言って勇人はいたずらっぽく笑った。
「どうして? なんでなのよ」
わたしの言葉にはハッキリ怒りが含まれていた。
そのとき、爆音とともにライトの光りをまき散らしながらオートバーイがやってきてわたし達の前で止まった。そしてライダーはフルフェイスを脱いだ。
「勇人、行くぞ。早くしなよ」
ビラ撒きのアルバイトで雇った眉の濃い学生だった。勇人はライダーからヘルメットを受け取ると、後部座席に飛び乗った。
「店長さんよお、相手間違えてんじゃねえのかい?」
ライダーが嫌らしい顔で笑った。勇人はもはやわたしのことなど眼中にないかのように、ライダーのからだに手を回し、その背中に頬を押しつけていた。
遠ざかるオートバイの爆音を聞きながら、勇人の小さな肩が愛おしいと思った。そのくせ彼を連れ去ったライダーに対して怒りも嫉妬も感じていないのが不思議だった。


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【省線電車】 [obsolete]

『……坂本のくれた万葉集歌は、二度家を焼かれた時も、万寿子はもって逃げた。だが、敗戦直後のある日、混んだ省線電車の中で、急にうしろからのしかかるように押して来る男がいたと思うと、その男は万寿子の手から万葉集歌をもぎとって発車間際の電車から飛びおりていった。風呂敷に包んでいた万葉集歌を、男は札束か何かと間違えたのだろう。』(「明石大門」田宮虎彦、昭和33年)

「省線電車」あるいは「省線」とは、現在のJRが、鉄道省(戦後は運輸省)の管轄下にあったときの普通電車の呼び方。昭和24年に管轄が日本国有鉄道公社に移り、その頃から「国電」と呼ばれはじめた。それでも、すっかり定着していた「省線」はなかなか廃れることなく、とりわけ年配者にはいつまでも使われ続けた。昭和30年代はまさに「省線」と「国電」の過渡期だった。それが、昭和62年の国鉄民営化によって、現在のJRという呼称になった。当時、JRでは呼称を募集して「E電」を採用するという経緯があったが、これはなぜか定着せず消えてしまった。
「省線」どころか「国電」まで廃語になってしまったのだから、時代のスピードの速さには驚かされる。なお、昭和30年代頃まで、現在の私鉄のように民間会社で運営する電車やバスのことを「社線」(会社線)と言ったが、こちらのほうはあまりポピュラーではなかった。

田宮虎彦の小説はどれもこれも女々しい。「明石大門」(あかしおおと)も、その例にもれない。
戦後“ありきたり”の結婚をした万寿子は、酒浸りの夫の死後、生活のために下宿させていた9歳年下の砂田と深い仲になる。ふたりは結婚の許可を得るため砂田の故郷である姫路へ向かった。途中、明石の宿に泊まり、砂田はひとりで両親を説得するため実家のある村へ行く。ひとり残った万寿子は、明石の海をみながら、
「ともしびの明石大門に入らむ日や……」
という万葉集の柿本人麿の歌を思い出す。しかしその下の句がどうしても出てこなかった。
万葉集歌は、戦前彼女がまだ15、6歳の頃淡い思いを抱いた青年・坂本からもらったものだった。その坂本は戦火の南方へ行ったまま消息を絶っていたのだった。
翌日、連絡がないので心配になって万寿子は砂田の実家のある村へ向かった。その途中、夜道で砂田と会う。彼は説得がうまくいってないことを告げる。そこで万寿子はようやく結婚という“夢”から醒める。そして「半年間、楽しかった」といい残して駅へ戻っていく。
列車の窓外に拡がる暗い海に燈台の灯りが見えたとき、
「……こぎ別れなむ家のあたり見ず」
という柿本人麿の下の句を思い出し嗚咽するのだった。
ステロタイプのメロドラマである。しかしステロタイプだからこそ安心して浸れる世界というものもある。なぜならステロタイプというのは我々の日常であり、ステロタイプのメロドラマというのは、それを凝縮抽象したとてもわかりやすい世界だからだ。


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【蟇口(がまぐち)】 [obsolete]

『紅い林檎を白く剥いて煮ると……それを氷に冷やしてきらきら光る匙に取ってやると、うつつのようになっている熱の子どもは乾いたくちびるを明ける。「おいしい」と云ったっけ。みとるということをほとんど知らない米子のような母親を持って不二子はあわれだ、と往来で梨花は感傷にふける。自分の蟇口には五百円札一枚と銅貨が二ツ、そして林檎は一個二十円としてあった。』
(「流れる」幸田文、昭和30年)

「蟇口」(蝦蟇口)は口金の付いた銭入れで、今ではあまり見かけない。その口金がガマガエルの口に似ているところからその名となった。もちろん昭和30年代にはすでい折りたたみ式の財布(札入れ)があったのだが。蟇口は布製、皮製、洒落たビーズなど様々な素材のものがあった。開け閉めするとき、「パチッ」と金具が交差する音が何ともいえず心地よかった。その金具の部分は今の財布にも活かされている。
現金よりもカードが幅をきかせる昨今、廃物とならざるをえないのかもしれない。小さめのもので小銭入れとしてならまだ利用価値があると思うのだが。

幸田文は明治の文豪・幸田露伴の娘で、晩年不遇だった露伴を看取ったのち文筆を始めた。
「流れる」は初の長編小説で、そのとき51歳だった。
芸者屋へ住み込みの女中として雇われた中年女が見た花街の世界と、そこに生きる女たち。テレビの「家政婦は見た」のようにたいそうな事件が起きるわけではないが、凋落していく置屋に出入りするリアリティに富んだ芸者たち。人物ばかりでなく、芸者屋の大道具小道具までが独特の観察力と感性によって描写されている。そして、主人公である女中になぜか教養が備わっていて、それを見せびらかさず、かといって出し惜しみせずというところが、魅力的なキャラクターになっている。
昭和31年に東宝で映画化。監督・成瀬巳喜男、主演・田中絹代、共演・山田五十鈴、高峰秀子、岡田茉莉子他。


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【B・G(ビージー)】 [obsolete]

『「もし。お嫌でなかったら、弟のことで、聞いてくださいません?」
「いいとも」
「弟が、恋愛をしているらしいんです」
「ほう。いくつだったっけ?」
「まだ、二十二歳なんです」
「二十二歳なら一人前だよ」
「相手は小沢咲子さんといって、母一人娘一人の貧しいB・Gなんです」
(「御身」源氏鶏太、昭和36~37年)

「B・G」(ビージー)はビジネス・ガールの略。この小説「御身」でも「弟は……二十一、二歳のビジネス・ガール風の娘と一緒だった」というように、略さず表記しているところもある。一般的にはやはり「ビージー」と使われることが多かった。戦後の言葉で昭和25年頃から和製英語として使われはじめた。
ところが、この小説が出た翌年、NHKが「B・Gは売春婦に通じるBargirlと誤解される」として放送禁止用語にした。それを受け雑誌「女性自身」が読者から代替語を募集し、O・L(オーエル)つまりオフィス・レディが採用された。ちなみにそのときの第2位がオフィス・ガール、第3位がサラリー・ガール。
「B・G」の寿命はほんの10数年だった。B・Gも和製英語、O・Lも和製英語。ならば「NHKさん、そんなに神経質にならずにB・Gでもよかったのでは」という意見もあった。昭和44年公開の「男はつらいよ」第1作で、寅さんは妹・さくらを紹介するのに「丸の内でビージーやってるんだけどね」と言っている。

「御身」はいきなりラブ・ホテルのベッドからという、源氏鶏太にしてはかなり大胆な導入部分。弟が会社の金30万円を紛失したため、ある会社の社長と半年間の売春契約をする健気な姉が主人公。それまでの源氏鶏太の作品では、男が金は渡すが、身体は要求しないとか、土壇場で紛失した金が出て来て、というパターンが常套だが、この「御身」ではそうではない。ヒロインは恋人がありながら、徐々に契約した社長に魅かれていく。そこへヒロインと同じように貧しさから上司との売春を続ける弟の恋人が登場したり、物語は複雑になっていく。こういう設定だと悲劇的結末も予測できるのだが、そこは源氏鶏太。ものの見事な割り切り方でハッピーエンド。なんとなく読み終わって苦みが残らないわけではないが、そこにリアリティがあるのかも。
「御身」は婦人公論に連載されたもので、昭和30年代の後半ともなると、“婦人”たちはこういうやや刺激的なストーリーを望んでいたのかもしれない。


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Three Men Went A-Hunting [story]

♪ 星のない暗い空 燃える悪の炎
  こらえこらえて 胸にたぎる怒りを
  冷たく月が 笑ったときに
  命賭けて男の 怒りをぶちまけろ
  怒りをぶちまけろ
(「男の怒りをぶちまけろ」詞・滝田順、曲・鏑木創、歌・赤木圭一郎、昭和35年)

赤木圭一郎の主演デビューは昭和34年の「素ッ裸の年令」だが、彼の存在感をファンに知らしめた作品は昭和35年2月公開の「拳銃無頼帖・抜き射ちの竜」だろう。それから日活撮影所で事故死するまでのわずか1年間に13本の作品に主演している。
「男の怒りをぶちまけろ」は35年6月の同名映画主題歌。相手役は「抜き射ちの竜」からの浅丘ルリ子。しかし、拳銃無頼帖の3作目「不敵に笑う男」から笹森礼子になる。
トニーこと赤木圭一郎は映画もいいが、歌もいい。その歌の中で相手のことを“野郎”と呼ぶことが結構多い。この歌の2番には「欲に憑かれた野郎」があり、「不敵に笑う男」では「星の光をみつめさまよう野郎」がある。ほかにもいくつかあって極めつけはズバリ「野郎、泣くねえ!」といタイトルの歌もある。
裕次郎だったら絶対に「野郎」とは言わない。小林旭でも言わない。“野郎”が似合うのはトニーだけなのだ。にもかかわらずスクリーンの中のトニーはタフガイやマイトガイよりもはるかにエレガントだった。21歳の死はあまりにも早すぎたのだが、役者に限らず“永遠の21歳”は羨ましいという気持もある。

盆踊りの夜。炭坑節に抗うような力強い太鼓の音。櫓(やぐら)の上、捻り鉢巻に浴衣の片肌脱いで手慣れた撥(ばち)姿を見せている大男は間違いなく四郎だ。流れるような身のこなしと撥さばきで叩き出す心地よい音が、漆黒の空に貼り付いてる月に向かって飛んでいく。
僕は高校を出て半年めにこの町を飛び出した。そして8年が過ぎ、まるであの太鼓の音に引きつけられるように故郷へ帰ってきた。

僕と四郎と憲吾は幼なじみで同級生だった。小学生の頃はほんとによく遊んだ。家族といる時間より彼らと一緒に過ごす時間の方が長かったほどだった。それが、中学へ入る頃から少しずつ距離ができるようになっていった。
スポーツ万能だった憲吾は中学で野球部に入った。しかし運がなかった。1年の秋に暴力事件を起こして退部させられたのだ。野球か不良か。そんな時代だった。野球を奪われた彼は当たり前のように町の不良グループと交わるようになった。僕を避けるようになったのもその頃からだった。

3人のなかでいちばん優しい男が四郎だった。小学時代から身長は170センチ、体重80キロという巨漢で、中学に入るとさらに大きくなった。勉強が苦手、他人と争うことが苦手、おまけに極端な恥ずかしがりだった。何か失敗したり、人から笑われたりすると耳まで真赤になってしまう。小学校の頃から憲吾の舎弟分で、やや小柄な憲吾から大男の四郎が顎で使われる様子は、なんとも奇妙な光景だった。

僕から離れていった憲吾だったが四郎との付き合いは続いていた。野球部をやめさせられてから、あまり学校へ来なくなった憲吾は、授業が終わった頃に姿を現し、よく四郎を遊びに誘っていた。しかし憲吾たちのグループと行動を共にすることは、四郎にとって決して快適なことではなかったようだ。
そんな四郎が憲吾から離れることになったのは、3年の夏だった。突然、相撲部屋からスカウトされたのだ。そのことも驚いたが、それを四郎が承諾したことにさらに驚かされた。身体は大きくても運動神経は決して良いほうではなく、あの優しい心根はとても厳しい格闘技の世界でやっていけるとは思えなかったからだ。おそらく四郎は不良グループから離れたかったのではないだろうか。
四郎が憲吾の顔を見ずにいられたのは1年半ほどだった。大方の予想どおり、厳しい稽古に耐えられずとうとうケツを割ってしまったのだった。

四郎が戻ってきたとき、僕は隣町の工業高校へ通っていた。身体がさらに大きくなった彼は、家業のプレス工場で働いていた。朝、僕が通学するとき、開け放たれた工場の中から「お早う」と四郎が人懐っこい顔をのぞかせたものだった。
中学を卒業して不良グループのリーダー格になった憲吾は、町の暴力団の使いっ走りのようなことをして、いっぱしの組員を気取っていた。
四郎が戻ってきてからしばらくして、嫌な噂を聞いた。四郎が憲吾からひどく殴られたというのだ。理由は憲吾の誘いを断ったからということだった。小学校の頃から、憲吾はどんなに四郎に罵詈雑言を浴びせても暴力を振るうことはなかった。また、四郎も憲吾に誘われれば断ることはなかった。誰だって歳をとれば少しずつ変わっていくのだ。

四郎の顔に笑顔が戻ったのは、僕が高校3年の夏だった。町内会の世話役が彼の体格に目をつけ、盆踊りの太鼓を叩いてみないかと誘ったのだ。本番の1週間前から四郎の太鼓の練習が始まった。毎晩夜遅くまで公民館から太鼓の音が町中に響き渡っていた。四郎の没頭ぶりは教える世話役が辟易するほどだったとか。

そして本番の盆踊り。四郎は言ってみれば“控え”のひとりで、主役の叩き手が休憩するときだけ代わりに叩くのだ。それでも三晩続いた踊りの祭典で何度か四郎が撥を握る姿が見られた。大きな図体の割りにぎこちない身のこなしは、踊り手や見物人の失笑を買っていた。それでも、顔ばかりではなく身体中真赤にしながら四郎は太鼓を叩きまくった。

その翌年の夏。四郎は相変わらず“控え”だったが、櫓に登る機会は前の年よりはるかに増えていた。その撥さばきもベテランの主役にははるか及ばなかったが、なかなか様になってきていた。その四郎の勇姿を見た翌日、僕はこの町を出て行ったのだった。

たった8年というけれど、町は大きく変わった。いちばん大きな変化は以前から計画されていた地下鉄が開通したことだろう。そのことで駅前にショッピングセンターや大型スーパーができ景観も一変した。しかし、僕が驚いたのはそうした町から街への変化ではない。

憲吾は僕が町を出てすぐ、中学時代の同級生の芝崎恵美と結婚した。恵美は当時、学年でも1、2を争う美少女で、崩れたところなど微塵もない優等生だった。それが大学を中退し、どうして憲吾とつき合い、そして一緒になったのか。その経緯は知らない。
しかし、憲吾と恵美の暮らしは3年もたなかった。その間、憲吾は彼女に暴力を振るい、いじめまくった。
それは、憲吾たちの溜まり場のパブでの出来事だった。仲間のいる前で恵美は憲吾からひどい暴行を受けた。見かねてそれを止めたのが四郎だった。舎弟に仲裁されて憲吾はさらに激昂した。恵美に代わって四郎を殴り始めた。しかし、4、5発殴られると四郎が1発返した。仲間たちにとって四郎が憲吾に反抗する姿は思いもよらない不思議な光景だった。四郎のパンチの数が段々増えていった。それと反比例するように憲吾の手数が減りやがて無抵抗になっていった。それでも四郎の打撃は止まなかった。まるで、太鼓を叩くようにリズミカルに拳を振るった。当時、その場にいた人間の話では、みんなで四郎に飛びかからなければ、憲吾は殴殺されていただろうというほど凄惨な状態だったとか。

憲吾は顔面、肋骨、腕を骨折して3カ月あまり入院した。店の通報で逮捕された四郎だったが憲吾が告訴しないといい張ったため、数日の留置で釈放となった。退院した憲吾はしばらくして町を出た。知り合いを頼って東京へ行ったとか。風のたよりでは、いまでは向こうで本格的な極道になったらしい。

昨日、四郎の家の前を通ったとき、あの規則正しいプレス機の音が聞こえてきた。彼の家では、一昨年父親が亡くなり、現在、母親と2人でプレス工場を営んでいる。母子2人の生活はなんとも寂しい光景だが、今年の秋、あの四郎がお嫁さんをもらうそうだ。僕を差し置いて。相手は芝崎恵美。うまくやったな。

四郎の幸せは、あの撥を振るう姿をみれば分かる。優しい目元が紅潮している。僕は、彼が“控え”の叩き手と交代して櫓を降りてきたら声をかけようと思っている。もちろん「おめでとう」と言うつもりである。


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【瀬戸火鉢】 [obsolete]

『差しむかいになって、ゆき子が坐った。ゆき子は風呂上がりとみえて、血色のいい手をしていた。大きな瀬戸火鉢には、鉄瓶が湯気を噴いている。障子ぎわに三面鏡が置いてあり、その横の小さい棚には潮汲みの人形が硝子箱におさまっていた。』
(「浮き雲」林芙美子、昭和26年)

瀬戸物製の火鉢。中には藁などを焼いた灰を入れておき、その都度火のついた炭を入れて使う暖房具。昭和30年代以前には各家庭にあったものだ。暖房具といっても部屋中が暖まるわけではなく、家族が火鉢の周りを囲み、手をかざして暖をとることになる。それはそれで今にはない超接近のコミュニケーションがあった。裕福な家庭には個人用あるいは来客用の小さな火鉢もあった。小火鉢あるいは手焙りなどと呼んでいた。
炭の上には五徳という鉄製で脚のついた輪を置き、その上に薬缶を乗せて湯を沸かしたり、金網で餅などを焼いたりした。火鉢に欠かせないのが、炭を動かすときに使う鉄製の火箸。つねに灰に突き刺さっていた。もうひとつ、“もんじゃ”で使うようなヘラがあったが、あれは炭を消すときに灰をかけるためのものだったのだろうか。
やがてガスストーブ、石油ストーブ、さらにはエアコンと暖房器具も変わっていった。セッティングが面倒なわりには、暖まらない暖房だったが、あの炭の燃える臭いはなつかしい。また、意味もなく火鉢で灰をかき混ぜてみたい。

林芙美子の生い立ち、青春時代は自伝である「放浪記」を読めばわかる。父親の放蕩、母との家出、身内からのいじめ、友だちの不在ととにかく暗かった。本だけが友だちだった。働きながら女学校を出て、カフェーの女給、女工、女中など様々な職をそれこそ放浪しながら、書く事への情熱を燃やし続けていたのである。19歳のときから日記をつけはじめ、それがのちの「放浪記」で、昭和5年(26歳)に出版され大ベストセラーとなった。以後流行作家として活躍し、戦後も「うず潮」「晩菊」「めし」など多くの作品を新聞、雑誌に書き続けた。
昭和24年11月から雑誌に連載したのが「浮雲」。どうしても充たされることのない男と女。それでいて離れることができない運命。彷徨の果て、女の死によってようやくその関係が終焉する。戦前から戦後にかけてのロング・ストーリー。監督・成瀬己喜男、主演・高峰秀子、森雅之で映画化された。
この「浮雲」が完結したのが26年の4月。それから三カ月後に林芙美子は心臓マヒで亡くなる。47歳だった。


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【つばめ】 [obsolete]

『……口を半開きにし、そして首をそんな角度にして曲げると、佐介はふだんよりもっと頭でっかちに見える。佐介はつばめが好きだったし、またつばめが飛ぶ季節が好きだった。つばめはほとんど空気の抵抗を感じていないような飛び方をした。
「つまり」鞄をぶらぶらさせて道を横切りながら佐介はぶつぶつと呟いた。「あれなんだな。つまり、あれだ」』
(「砂時計」梅崎春生、昭和30年)

「つばめ」を見なくなってから久しい。緑の乏しい街に住んでいるからだろう。まだ自然のたくさん残るところではあの華麗な飛翔が見られるのだろうか。
かつて「つばめ」は日本人にとって、スズメやカラスとともに親しみのある鳥だった。佐々木小次郎の秘剣「つばめ返し」は子供たちをワクワクさせたし、新幹線が走る前の特急といえば「つばめ」が人気だった。また、町内のどこかに必ずといっていいほど「つばめ」の巣があった。
越冬つばめもいたが、多くのつばめは渡り鳥だ。寒くなると日本から離れ、インドやマレーシアへ渡っていく。そして春になるとまた日本へ戻って来たのだが、その数がだんだん減っていった。農薬による害虫駆除(つばめの餌)が原因だと言われている。
いま都会ではカラスとハトが、人間との共存を訴えている。しかし、人間はそのゴミ荒しとフン害に脅威を覚え始めている。残された都会の鳥もやがて人工淘汰されてしまうのだろうか。レイチェル・カーソンは「沈黙の春」の中で、われわれに鳥の囀りが消えた田園をイメージさせた。現代の日本において将来、鳥類ばかりでなく(野犬も減った)、蝿、蚊など人類以外の生物の影が消え去った街をイメージすることは、さほど空想的なことではない。

その「つばめ」が随所に登場し、まるでその素早い飛翔が、愚鈍な人間と対蹠的な存在であるかのように描かれているのが梅崎春生の「砂時計」。
この作品は昭和29年から30年にかけて雑誌「群像」に連載された長編。著者が「ボロ家の春秋」で直木賞を受賞したのは、その連載中。
「砂時計」は白川研究所という“会社ゴロ”と、ひとりでも多くの在院老人を殺すことにやっきになっている養老院と、ふたつの会社に在籍する主人公・佐介と、それを取り巻く人々の話。主人公はほかに、カレー粉工場が付近にまき散らすカレーの粉と匂いが公害であることを訴える抗議運動にも没頭している。その養老院とカレー抗議同盟を舞台にして、現実と非現実の中間を彷徨うような話が展開されていく。とりわけ、カレー抗議同盟と反動分子との大乱闘劇や養老院で、経営者たちが野犬に襲われる修羅場は、そのあまりの凄まじさに、思わず笑ってしまう。
カフカや安部公房とはまた異なった、特異な梅崎ワールドは、読む者をその世界にひきずりこみ、十分に陶酔、堪能させずにはおかない。


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【物干台】 [obsolete]

『毎朝、麻理が学校へ出て行くと、私は、薄暗い階段を登り、仕事部屋に入った。机の前に坐ると、東隣の文房具屋の物干台が、見えた。その隣りは、理髪店で、その物干台には、よく、白布が干してあった。……』
(「娘と私」獅子文六、昭和31年)

洗濯物を干す場所で、主に2階の外に据え付けられていた。「物干し」あるいは「物干場」とも言った。これはいまでも設置している家がある。「物干台」や「物干し」と言っているのか否かは不明。ベランダと言ってしまっているのかも。いずれにしても昭和40年代以降、マンションの増加や建築構造の変化、あるいはプライバシーに対する過剰反応から少なくなってしまったことは事実だ。
物干台に欠かせないのが物干し竿。これもいつこ頃からかプラスチックや化学繊維製になってしまったが、以前は竹だった。したがって古くなると変色したり、割れたりする。一時、竹にビニールを貼り付けることが流行った。筒状のビニールを竹に被せ、上から熱湯をかけると縮んでピッタリと貼り付くのだ。これだと洗濯物も汚れないし、割れるのを防ぐことにもなる。グッドアイデアだったが、すぐにプラスチック製に押しやられてしまった。昨年だったか「さおだけ屋はなぜ潰れないか」(違ったっけ?)という本が話題になった。タイトルにつられて立ち読みしたら、答えは「専業ではないから」、つまり雑貨屋さんが配達の途中で、言葉は悪いが“行きがけの駄賃”でやっているからだと。早い話「さおだけ屋」なる商売はないので、当然潰れることもないというオチ。その本はマーケティングの本で、さおだけ屋は一例だったというわけ。商売は合法的な詐偽だとはいえ、あやうく購入するところだった。やっぱり立ち読みは必要だ。
あだしごとはさておき、夏の夜など星空が見えたり、夕涼みがてら花火見物ができたり、「物干台」は風情のある場所だった。

獅子文六は戦前からの作家だが、戦後、毎日新聞に連載した「てんやわんや」で多くの読者を獲得した。以後、「自由学校」「やっさもっさ」「青春怪談」「大番」などユーモアとアイロニーに富んだ小説を発表。
「娘と私」は雑誌『主婦の友』に足かけ4年にわたって連載した長編。他の作品とは異色の私小説で、娘とその義母になる妻の日常が描かれている。娘の恋人が訪ねてきたとき、キャッチボールをしながら、相手の人格を見抜こうとする父心が滑稽でリアル。
昭和36年、NHKが朝の連続テレビ小説の第一号として放映している。娘役は北林早苗他、「私」は北沢彪、妻が加藤道子。翌年には東宝で映画化。監督堀川弘通、出演は山村聡、原節子、星由里子。


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Somebody Loves You [story]

♪ うす紫の藤棚の  下で歌ったアベマリア
  澄んだ瞳が美しく なぜか心に残ってた
  君は優しい 君は優しい女学生
「女学生」(詞・北村公一、曲・越部義明、歌・安達明、昭和39年)。

大胆にもチャイコフスキーの「白鳥の湖」やイヴァノヴィッチの「ドナウ河のさざなみ」のさわりを前奏や間奏につかった甘いメロディーが印象的な歌。舟木一夫や西郷輝彦が主流だった青春歌謡のひとつ。大ヒットまではいかなかったが、この歌が好きだという男性は結構いる。安達明はコロムビアレコードが第2の舟木一夫と期待した歌手で「潮風を待つ少女」でデビュー。
当時の女学生といえばセーラー服。スカートの丈は膝下。ソックスは短い白。髪はお下げが多く化粧もしなければ、眉も剃らない。それでも可憐であったのは今と同じ。ただ、今の女学生はケイタイで彼氏を呼び出す、昔の女学生は憧れの君にラブレターを書く、それでも出せずに机の中。それぐらいの違いはある。

「いらっしゃい。お久しぶりです」
『いやあほんと、ご無沙汰になっちゃったなあ……』
「今年はじめてじゃないですか?」
『そんなになるかねえ。近くまで来ることは何度かあったんだけど、なかなか……』
「お忙しそうで、何よりですよ」
『忙しいんだか、要領がわるいんだか……。それはそうと、ボトルもう期限切れだよね』
「いえ、ウチは無期限ですから」
『ウレシイこと言ってくれるねえ』
「ウチは綺麗な女性がいるわけじゃないし、気の利いたバーテンがいるわけじゃないですから、そのぐらいしないと誰も来てくれません」
『良く言うよ。そんなこと期待してここへ来るわけじゃないよ。なにしろ普段からモテモテで女かき分けながら生きてるもんで、たまにはこういう色気ぬきの所へ来ないとね』
「身が持たない、ですか?」
『そうそう、そいうこと。分かってらっしゃる』
「そういえば、いつものお連れさん、近藤さんでしたっけ。今日はご一緒じゃないんですね」
『そうなんだよ。それがね……』

海老原さん。苗字だけで名前は……忘れた。隣町にある塗料メーカーの販売部長さん。4年ほど前からウチの店へ来るようになった。話し好きな人で、野球、ファッション、映画、音楽、何でもよく知っている。ただし、すぐに古い話に脱線するのでなかなか着いていけない。最近わかったことは、海老原さんはタイムスリップするために、こんな古い店へ来るのだということ。そういうお客さんは少なくない。

去年までは、月に2、3度顔を出していた。そのうちの2回に1回は近藤さんていう人と一緒。なんでも、海老原さんとは学生時代からの友人でフリーのカメラマンだとか。縁がなくていまだに独身だとも。
海老原さんとは対照的で、近藤さんは聞き役。いつも笑みを浮かべて話を聞いている。そしていいタイミングでボソっと気の利いたことを言う。絶妙のコンビだった。海老原さんが小柄でホッソリしているのに対し、近藤さんは180センチを超える長身で、髪ボサボサ、髭モジャモジャのビッグフットみたいな人。外見も好対照だった。

海老原さんの話によると、その近藤さんが昨年の暮れ、ガンで胃を全摘したとか。あのクルマにぶつかっても平気でいられそうな人が、わからないもんだ。海老原さん、手術前には何度か見舞いに行ったそうだが、手術が終わってからはまだ一度も行ってない。電話では何度も話しているそうで、それによると、「干物みたいに痩せちゃった姿を見せたくない」のだとか。男同士でもそんなものかなあ。そう言われれば、近藤さんって見かけと違ってシャイな人だったな。いつだったか、たまたま隣に座った女の客に話しかけられたとき、真っ赤な顔してたもの。

『そうなんだよ、ヤツは女にはからっきしダメ。だから、何度見合いしてもうまくいかない。まあ、短い時間でアイツの良さを分かる鋭い女がいないってこと。……でもさ、あんな顔しててもよ、中学と高校のときの2回告白されたことがあるんだってよ。中学のときはさ、放課後、校舎の裏で手紙を渡されたんだって。ヤツに言わせると「人生、最初で最後のラブレター」だってよ。ハハハハ……。えっ? どうなったかって? そこがヤツのダメなところでさ。それっきりだって。多分、ヤツから尻込みしちゃったんだろうな。そのくせ15、6の少女みたいに未だにその想い出を大事にしてる姿なんてのは、端にいるこっちが恥ずかしくなるほど、羨ましいよ。ハハハハ……』

世代は違うけど眩しい話だよね、近藤さんの話。純情っていうのかな。いまどきみかけないもの、そういう人も話も。

「それで、経過のほうはどうなんです?」
オレは今つくったテキーラ・サンライズを、海老原さんの前へ差しだしながら訊いた。
『なんでも、体調はいいらしいよ。ようやく新しい胃もできてきて、体重も増えてるってさ。仕事もぼつぼつ始めるって言ってたし。以前ほどは飲めないだろうけど、まあ来月あたり、またここへ来られるようになるんじゃないかな。』
「そうですか。それはなによりですね。近藤さんとの掛け合いを聞けないっていうのも寂しいですから」
『なんだよ、俺たちは漫才師じゃないっつうの。ハハハハ……』

ほんとに漫才師みたいな名コンビだな。ひとりが欠けると、もうひとりも元気がなくなっちゃう。今度、近藤さんが来たら、まだ聞いていない高校時代のもうひとつの告白話っていうのを聞いてみたいな。
ああゝ、オレも洗濯してアイロンでもかけてみっかな。その純情ってヤツにさ。えっ? そんなものとっくに失くなっちまってるだろうって? そうかもなあ。まあ、今度の休みにでも地元へ帰って探してみっか、どこかに畳んでしまってあるかもしれないから。


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【リンゴ箱】 [obsolete]

『……刑事は、その日から、渋谷署の刑事二人の応援を求めて、トリップル・クラウンのある渋谷界隈と、嵐鉄平が部屋をかりていた麻布の広尾付近の運送屋を、片っ端から当りはじめた。去年の十月頃、行先は伊豆のI町。重い、リンゴ箱のような木箱。手掛りはそれだけしかなかった。……』
(「四萬人の目撃者」有馬頼義、昭和33年)

「りんご箱」は文字どおり果物の林檎を運送するときに梱包する箱のこと。一般的にはヨコ50センチ、タテ30センチ、高さ30センチほどの木製の箱だった。箱は釘で打ち付けてあるのでバールで開ける。中にはいっぱいの籾殻が詰まっていて、その中に20~30個の林檎が埋まっている。物の少ない時代、箱は再利用された。業者は梱包用として何度も使い回ししただろうし、商店では陳列用の戸板の下に敷く台代わり使い、一般の家庭でも、もの入れや台、机、屑籠代わりに使った。
もちろんりんご箱が利用されたのは林檎ばかりではなく、機械の部品や玩具など様々な物流の梱包箱として重宝がられた。
知り合いの祖父は戦後、林檎の産地・信州から東京へ一旗揚げようと出て来た。その折り商売の元手にしようと、林檎を詰めた箱を8個も持ってきたとか。もちろん車ではなく、徒歩と列車を乗り継いでである。8個のりんご箱を抱えた姿は想像を絶する。
昭和30年代の中頃には軽くて頑丈な段ボールが登場し、リンゴ箱は廃物となっていった。あんなに利用価値のあったりんご箱も、その頃になると面倒がられ、故郷から送られた各家庭ではブツブツと文句を言いながらバラしたものだった。

プロ野球選手が、ヒットを打ったあとの走塁中に倒れ死亡する。当初は心臓マヒと思われたが解剖の結果、他殺の疑いが浮かび上がる。そしてチーム内のライバル選手に疑惑がかかる。「四萬人の目撃者」の4万人とはもちろん球場の観客のこと。衆人環視の中で行われた殺人のトリックと、その背景にある歪んだ友情。それが当時花形スポーツだった野球の世界の中で展開していく。野球用語がふんだんに出て来てファンには楽しい小説。
有馬頼義(よりちか)は父が伯爵という異色の作家。戦前から執筆活動をしていたが、昭和29年「終身未決囚」で直木賞を受賞。この「四萬人の目撃者」は「週刊読売」に連載されたもので、日本探偵クラブ賞を受賞している。野球の描写が精緻なのは、大の野球好きだからで、自ら大学野球の監督や、ノンプロチームのプレイングマネージャーをつとめるほどだった。他に「三十六人の乗客」「失脚」などがある。


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【コケティッシュ】 [obsolete]

『……彼女は瞬間富子の顔に拡がった赧みを見逃さなかった。それが何を意味するか、彼女には、容易にわからなかったが、とにかくそれは彼女がこのコケティッシュな従兄の嫁にこれまで一度も見たことのない表情であった。』
(「武蔵野夫人」大岡昇平、昭和28年)

「コケティッシュ」coquettish は戦前から小説の中でよく使われていた言葉で、女性に対して「色っぽい」「艶めかしい」「魅力的」などという意味をもつ。
「武蔵野夫人」の中では、他に、「コケット」、「コケットリイ」という言い方で出てくる。他の小説にもよく出てくるが、全体的にあまり肯定的な意味では使われていない。たいがいは、浮気相手だとか、色気を過剰にふりまく女だったり、どちらかというと、男にとっては魅力的な女であっても、女にとっては“女性の敵”というニュアンスで使われることが多い。
もう廃語かと思っていたら、先日TVであるタレントが使っていたので驚いた。ちょっと意味が違うようにも思えたが。
コケティッシュに替わる気の利いた言葉は見あたらない。

小説において“不倫”はインパクトの強いツールのひとつだ。
豊かな自然に囲まれた武蔵野で隣接する2組の夫婦。主人公の道子は古風な考えの女。もうひとりの富子は奔放な精神の持ち主。それぞれの夫婦が、おたがいに一緒の空間に身を置く以外は夫婦としての意味を失っている男と女。道子の夫は富子に惹かれていき、そのことを妻に対して隠そうとしない。そこへ、道子の従弟である勉が復員してくる。こうして物語は5つ巴で展開していく。とはいえ核になるのは道子と勉の“許されざる愛”である。
結局最後は道子の死によって物語は終わるのだが、それを勉に告げに来た富子の夫が、知らせる前に小説は終わってしまうのである。そのことを聞いた勉が“一種の怪物に”なるだろうことをにおわせながら。
小説の魅力は主人公の魅力でもある。「道徳だけが力なのよ」という武蔵野夫人つまり道子は、実はそれ以上に強いものが“誓い”だと勉に打ち明ける。5人の中で最も情熱や欲望に流されることなく、冷静に生き、そして冷静に死を選んだ人物・道子を愛おしいと思う読者は男ばかりではないのではないか。


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【押売り】 [obsolete]

『……もう六十いくつにもなれば、美しく見えたいと思うことの方がグロだということを、かな女とて知らない訳ではない。しかし口許がしなびていると、人と会った時に気おくれがする。言葉がうまく発音出来ないから、押売りを撃退する時にも不自由だろうし、強盗は見くびって行きがけの駄賃にしめ殺して行くかもしれない。……』
(「かな女と義歯」曽野綾子・昭和34年)

「押売り」とはよく言えば訪問販売、実体はゆすり、たかりのこと。明治時代からある悪徳商法で、昭和30年代でもめずらしい“商売”ではなかった。売る物といえば、ゴムひもとかタワシとか石鹸など嵩張らない日用品。玄関先で「奥さん、勝って貰えないかね。実は昨日ムショを出たばかりで当座の小遣いにも不自由してるもんで……」などと、コワイ口上を述べて、なかば脅迫的に買わせる。時代が変わり個人個人の生活が豊かになると、インターホンがつき、訪問販売に関する法律が厳しくなり、各家庭のガードがしっかりしてくる。それとともに押売りもやりにくくなった。とはいえ根絶やしになったわけではない。いまでも、インターホン越しに耳障りのよい言葉を囁くなど、あの手この手でドアを開けさせようとする訪問販売があちこちに出没している。ドアを開けたが最後、気の弱い人、お人好し、さらにはお年寄りはどうにも断ることができず契約してしまう。断ろうものならば、衣を脱いで鎧を見せる。最近話題になったリフォーム、あるいは高額な寝具など、これらも立派な押売り。いくら時代が変わろうとも、この手の悪徳商売はそう簡単には絶滅しない。

むかし芸者をしていた老婦人が、義歯をつくることにしたのだが、何度つくってもらっても違和感があって気に入らない。医者は「あなたのわがままだ」と言う。一緒に暮らしている息子夫婦は自分たちのことで精一杯で、少しもこちらの身になってくれない。そこで思い切ってひとりで暮らそうと思う。そんなとき新聞広告でむかし落籍(ひか)されて住んだ北鎌倉の物件が目を惹いた。不動産屋に案内されて見に行ったその物件は不満だったが、2件目に案内された建物を見てはっとした。それはかつて婦人が住んでいた屋敷だったのだ。物件を案内されながら婦人の頭の中に昔の想い出が甦る。しかし、帰り際庭で足を滑らせたとき、むかしの男の「家を買うよりはまず、いい歯をつくりなさい」という声を聞く。そんな不安定な老女の心理を描いた作品が「かな女と義歯」。
曽野綾子は昭和30年代初頭、原田康子(挽歌)、有吉佐和子(地唄)らとともに女流文士として注目をあびた。その現象は「才女時代」という流行語にもなった。この「かな女と義歯」を書いたのが20代の後半というのだから、その早熟さには驚かされる。


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Let's Spend The Night Together② [story]

♪ 淋しさにひとり書く 置き手紙
  あて先は ほろ苦い友だちさ
  横書きの 白い地の便せんは
  愛を記したときもある
  
  バイバイまだ 夢のようさ
  バイバイきみ ドアを閉めて
  思い出の 紫蘭の花
  庭のすみに 埋めたよ

  バイバイきみ すぐに行くよ
  バイバイバイMy LOVE 
  きみと同じ とこへ
  バイバイMy Love 夏になれば
  きみのいる ところへ
(「君に捧げるほろ苦いブルース」詞、曲、歌・荒木一郎、昭和50年)

深秋の午後6時ともなると、町はすっかり闇に包まれてしまう。私はJRのT駅で降り、昔の記憶をたどりながら、A町の割烹「忍田」を探した。町並みはずいぶん変わってしまっていたけれど、道筋は昔のままだった。「忍田」はすぐに見つかった。

仲居さんに案内されて座敷の襖を開けた。三つの顔がいっせいに私を見た。幹事の篠塚はすぐに分かった。しかしあとの男と女の二人は見覚えはあるのだが名前が出てこない。
「よお、来たな。待ってたよ」篠塚に言われて私は女の横に座った。斜向かいの篠塚が私の前の男を示して「コイツ、誰だか覚えてるだろ?」と訊いてきた。私は困った。そのときその男がビール瓶を私に向けて、「前野、まあとりあえず一杯」と笑顔で言った。私は素早くコップを差し出した。「清田だよ」と篠塚が教えてくれた。
思いだした。よく学校を休むヤツだった。家が商店街の肉屋だった清田文雄だ。そういえば、よく篠塚とふたりで連んでいたっけ。それをきっかけに私の記憶が超高速で巻き戻り、30数年前の3年7組のさまざまな情景が浮かんできた。

「そうか、あんたは岡田美智子さんだったよな」
「うれしいわ。思い出していただいて」
隣りの女は心底嬉しそうに言った。その笑顔が驚くほど若々しかった。
岡田美智子。貧しい家の娘だった。みんな貧しかったけれど、彼女の家は母子家庭でことさら貧しかった。いつもボロ布のような服を着ていた。勉強も下から数えたほうが早いぐらいで、いるんだかいないんだか分からないような存在だった。あの岡田美智子がこんなに……。そう言われてみれば、身なりが汚く陰気な性格だったけれど、目鼻立ちは決してわるくはなかった。
「さあ、全員揃ったところで改めて乾杯しよう」
篠塚の音頭で乾杯した。そして、昔話がはじまった。しかし、私には少し違和感があった。全員って4人しか来ないのか……。先生も欠席?。楽しみにしていた同じサッカー部の高山や諏訪も来てないし、あの頃胸をときめかしていた憧れの五十嵐鈴江も来ていない。今日出席している篠塚をはじめ、清田も岡田も、在学中はほとんど口をきいたことのない人間だ。

「前野さん、わたしずっとあなたに憧れてたのよ」
美智子がビールを注いでくれながら、媚びを含んだ声で言った。
「よおよお、さっそく告白か。いいよなあ色男はよ」
清田が茶化した。
「しかたないわよ。本当のことなんだから。ねえ」
「ええ? それは全然気づかなかった。残念だなあ、あの頃言ってもらえばなあ……」
「ウソばっか。あなた五十嵐さんが好きだったんでしょ? ちゃんと知ってるんだから」
「そうそう、五十嵐鈴江ね。彼女、フランス人と結婚したんだってさ」
篠塚が言った。
「違うよ、たしか相手はイタリア人だって聞いたぜ」
清田が反論した。
「いや、間違いないよ、フランス人だよ。だってさ……」
ふたりの間に小さな論争が起こった。

「わたしね、今、ここでお店やってるの。もし、時間があったらいらっしゃって」
そう小声で言うと、美智子はそっと名刺をテーブルの上にすべらせた。その名刺には新宿の住所と「ワルツ」という店の名前、そして須藤ミチという名前が印刷されていた。
「へえ、今は須藤って言うんだ」
「ふふふ……。今じゃなくて昔。一時的にね。今はまた岡田に戻ってるの。でも、しばらく使っていた名前だから変えるのも面倒だし、そのままにしてあるの」
そう言ってグラスのビールを干す美智子の横顔は、視線を移すのを忘れるほど美しかった。

結局その後、私たち4人は焼鳥屋の二次会で盛り上がった。楽しい時間を過ごした分、酒量も上がり、どうやって家へ帰ったのか明瞭り覚えていなかった。

目が覚めたのは翌日、つまり土曜日の朝だった。パンとサラダで遅い朝食を摂りながら、不思議な感覚を覚えていた。死ぬはずの日に、久しく感じなかった享楽を味わうとは。もしかしたら、死んではいけないという何かのサインなのだろうか。そんな都合のいい考えが気分を支配してきた。
熱いコーヒーが喉を落ちると昨晩の酒宴が蘇ってきた。岡田美智子の笑顔が脳裏に貼り付いて離れなかった。その時ふと欠席した高山の顔が、中学生の頃のままで頭に割り込んできた。昨日電話が通じなかったことも気になっていたので再び電話をしてみた。

「はい、高山です」
電話の向こうから懐かしい声が聞こえた。彼も私の声に吃驚したようだった。私は昨晩の同窓会のことを話し、彼に会いたかったことを伝えた。すると高山は「からかう気かよ」と少し怒気を含んだ声で言った。その意味が分からず、なおも昨日の話を繰り返すと今度は声を震わせながら言うのだった。
「前野……、よく聞けよ。篠塚と清田は去年、一緒に旅行したインドネシアで事故に遭って死んだんだよ。岡田美智子は6年前、可哀想に元の旦那に刺し殺されたんだ。君はほんとうに知らなかったのか?」
信じられなかった。篠塚も清田も、あの岡田美智子までこの世のものではないのか。私は幽霊たちに招待されたのか。そんなはずはない。ではこれはなんなのだ。私は手にした須藤ミチの名刺を改めて見なおした。

その名刺を頼りに私は新宿の夜を彷徨っていた。灯りが途絶えた街角を曲がると「ワルツ」という赤い字で書かれた小さな看板が目に入った。やっぱりあった。私はこころもち早足で店に近づきドアを押し開けた。
「やっぱり来てくださったのね。ウレシイ」
薄暗い店内のカウンターの中から岡田美智子が笑顔でそう言った。そして、後ろでドアがバタンと音をたてて閉まった。


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Let's Spend The Night Together① [story]

♪ 淋しさにひとり飲む コーヒーは
  挽きたての ほろ苦い味がする
  ゆきずりの 夜に買う綿あめは
  きみと愛した味がする
  
  バイバイまだ 夢のようさ
  バイバイきみ ドアの外の
  気に入りの 紫蘭の花
  きのうの朝 枯れたよ
  
  バイバイMy Love 長すぎた
  バイバイバイMy LOVE 
  僕の歌も やがて
  バイバイMy Love 終わるだろう
  バイバイバイMy Love もうすぐ
(「君に捧げるほろ苦いブルース」詞、曲、歌・荒木一郎、昭和50年)

ラジオから荒木一郎の「空に星があるように」(昭和41年)ながれてきたときは少々驚いた。いままで聴いたことのないフィーリングの日本の歌だったからだ。
彼はマイク真木(バラが咲いた)、ブルー・コメッツ(青い瞳)、加山雄三(君といつまでも)と同じ年に「空に―」をヒットさせている。つまり、日本の流行歌が、フォーク、GS、歌謡ポップスと入り乱れた混沌の時代に出て来たのだ。とくに加山雄三とはよく比較された。動の加山に静の荒木。加山が夏なら荒木は秋。というように。
しかし作詞作曲歌唱をこなすのがシンガーソングライターだとすると、荒木一郎こそその先駆けだったのではないだろうか。岡林信康やジャックスの早川義夫が出てくるのはその2年後なのだから。
「君に捧げるほろ苦いブルース」はその「空に星があるように」から9年目の作品。この歌は詞を読むと分かるように、死んでしまった彼女を想う歌である。のちに作られたアリスの「帰らざる日々」は、これから自殺しようとする女の歌だが、曲調や歌詞が似ているとクレームがついたとか。これは余談。
ところで、彼が何をヒントにこの歌を作ったのかというと、実際にあったことをまとめたのだとか。ただし、死んだのは人間ではなく彼の飼っていた猫なのだそうだ。もっとも、その猫はメスで彼女には変わりないのだが。

私はその日、ほんとうに首をくくるつもりだった。
定年を10年も残していきなり会社を首になり、女房はその退職金のほとんどを持ってうかれ鳥のように何処かへ飛んでいってしまった。それが、1年とすこし前のことだ。
もちろん働くつもりはあったのだが、研磨機械の営業ひとすじで20年以上やってきた人間に、そう簡単に再就職の口なんてなかった。そのうちお決まりのスロットに競馬、競輪。雇用保険の受給が終わる頃には、預金残高ゼロ。それに加えて、最近じゃサラ金の催促までやかましくなりはじめている。近未来予想は「サラ金地獄」。
この先そんなにいいこともなさそうだ。そう思ったら、ええい、死んでやれって思ったというわけ。

前の晩アルコールに漬かりながらそう決心したものの、眠ってしまった。自殺も睡魔だけには勝てない。
朝目が覚めた。目をこすりながら新聞受けに手をつっこんだ。新聞と一緒に封書があった。キッチンに戻ってそいつらをテーブルに放り投げ、椅子に座ったところでようやく昨日の“決心”が目を覚ました。我ながら可笑しかった。朝刊に目を通し、おお、昨日も阪神は勝ったか。小泉くんの命もあと少しか……。なんて感想をもらしながら、ロープを用意するっていうのも間抜けな話だ。これから死のうって人間に新聞も旧聞もあったもんじゃない。しかし、なぜか新聞の下にある封書が気になった。元妻からの手紙でよりを戻したいって? ないな。それとも忘れていた親戚が死んで莫大な遺産の通知? まさか。私の身内にそんな金持ちなんかいるわけない。

しかし、どうしてもその手紙を死ぬ前に見ておかなければならないような気がした。それで引っ張り出してみた。宛先前野健治、たしかに私だ。差出人は杉並区A町の篠塚昇介。篠塚……聞いたことがあるような、ないような。指先で乱暴に封筒を引きちぎった。

「秋麗の候、ますますご健勝のこととお喜び申しあげます……」
それは、中学校の同窓会の通知だった。そうだ、町名は変わっているが杉並のA町といえば私が小学生、中学生時代を過ごした町だ。あれから30年以上、あの町へは一度も行ったことがなかった。あのS中学校の3年7組の同窓会だ。篠塚……、思いだしたぞ。演劇部のヤツだ。どうも理屈っぽくて苦手なヤツだった。しかし、誰であっても懐かしいじゃないか。

思い出すな。あの頃はまだ田んぼや畑が残っていた。小学校時代は野球ばかりやっていた。ちょうど6年のときがメキシコ五輪で、日本はサッカーで銅メダル。釜本が得点王になったんだ。あれが第一次のサッカーブーム。私は野球じゃ上手になれないと見切りをつけて中学ではサッカー部へ入ったのだった。楽しかったな中学時代。色気づいたのもちょうどあの頃だったな、ビニ本がブームになってよく友だちと廻し読みしたものだった。
それが父の仕事の都合で、3年の夏休みを前にして私は神奈川のH市へ引っ越した。H市での中学生活は半年あまり。想い出は断然S中学だ。もう一度昔に帰れるとしたら、高校時代よりも、大学時代よりもやっぱりあの中学時代だな。A町か、行ってみたいな。ずいぶん変わってしまっただろうな。

で、いつなんだ同窓会は。10月29日の金曜日、午後6時より、A町割烹「忍田」。29日といえば、おいおい今日じゃないか。やけに急な話だな、配達が遅れたのか?。
……まてよ、そうか私は死ぬんだったな。困った。……まあ、死ぬ前に昔の連中に会うってのも、冥途の土産話にはいいかもしれない。よし、決めた。死ぬのは明日だ。でも、この返信用のハガキを送り返したんじゃ間に合わないな。そうだ、直接行ってしまおう。

そのとき、S中学のサッカー部仲間でいまでも賀状のやりとりをしている高山祐也のことを思い出した。彼も来るだろうか。そうだ、いまから彼に連絡してみよう。私は机の中から今年の賀状を引っ張り出し、高山祐也に電話をしてみた。しかし、何度かけても留守でつながらなかった。ま、いいか。多分夕方逢えるだろう。
そいうわけで私は、首吊りを一時中断して、その日の夕方、同窓会へ出席するためA町へ向かったのだった。


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【アドバルーン】 [obsolete]

『……街はようやく昏れかけていた。オレンジ色に空が光り、その空からデパートのアドバルーンがゆっくり降りはじめていた。ぼくは降りてくるアドバルーンを見上げながら、これからも幾度かあの女のいる店に行くであろうぼくを感じた。……』
(「週末の二人」原田康子、昭和31年)

昭和30年代、都会の空はアドバルーンで埋め尽くされていたというのは大変な誇張だが、当時の東京を鳥瞰してみれば、おそらく100本、200本という単位ではすまないアドバールンが上がっていたはずである。
「アドバルーン」のはじまりは、大正2年とも5年とも言われているが、いずれにしろ日本独自の広告媒体だったとか。adballoonは和製英語で、当初は広告気球と呼ばれていた。美ち奴が♪ 空にゃ今日もアドバールン……(「あゝそれなのに」)と歌ったのは昭和11年。戦時中は気球爆弾などという物騒なものに取って代わられ、戦後、進駐軍の許可が出て大ぴらに空にブチ上げはじめたのが昭和30年代というわけ。引用にもあるとおり、デパートの宣伝には欠かせないものだった。「週末の二人」の舞台は北海道の都市で、当時アドバルーンが全国的に使用されていたことが分かる。宍戸錠がアドバルーンに乗って登場したのは「殺しの烙印」(鈴木清順監督、昭和42年)だったか。
最近は見かけなくなってしまったが、今でも制作会社はあり、時折、イベントや郊外パチンコ店の開店などで使われているようだ。もっともオーソドックスな丸形よりも、キャラクター仕様の気球が多いという話。

結婚3年目の若い夫婦。土曜日の夜は妻の誕生日パーティー。妻は出勤する夫にプレゼントを買うための金を渡す。しかし、その夜ケーキと料理を用意した妻のもとに夫は帰らなかった。夫はプレゼントは買ったものの同僚の誘いを断り切れず、バーで飲み明かしてしまったのだ。日曜日の朝、夜中に帰宅した夫は妻に理由も告げず外出する。昨日の店へ忘れてきたプレゼントのペンダントを取りにいったのだ。残された妻も街へ出かける。喫茶店に入り、そこの音楽に触発されて何かをノートに書きたくなるが、ペンを忘れたことに気づく。傍にいた若い男に訊ねると鉛筆を貸してくれた。妻は誘われて座席を移り、その男と向かい合う。
「三年目の浮気」という流行歌があったが、原田康子の「週末の二人」は、三年という微妙なキャリアの夫婦の、心のすれ違いやSOMETHINGを求める気持を描いた短編。大ベストセラー「挽歌」を書く少し前に書かれた作品。


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【ペーブメント】 [obsolete]

『……ギリギリの気持までをはっきりこのノートに書き、それをこの屋上庭園の一隅に何気なく残して、自分自身は、ペーブメントの埃りの上に強く打ちつけて四散させるというこのわたしの計画は、計画としてはとてもわたしの気に入ったものだったのに。』
(「魔に憑かれて」北原武夫、昭和32年)

「ペーブ(ヴ)メント」Pavement は舗道(舗装道路)のこと。言葉そのものは大正時代からあった。当時はペーブなどと省略したり。戦時中は敵性用語としてお蔵入りしていたが、戦後ホコリまみれの言葉で引っ張り出され、小説でも盛んに使われた。
歌謡曲でも♪ ペーブメントにうつる影が……(二人の銀座)などと歌われていたが、なぜかいつの間にか廃語になってしまった。昭和50年代にはほとんど聞かれなくなってしまったのではないか。ペーブメントという言葉が長すぎてゴロがわるいからなのか。親が子供に「危ないからペーブメントを歩くのよ」なんて言ってられないものね。

戦前、新聞記者や雑誌編集者をしながら小説を書いていた北原武夫は、戦後「マタイ伝」(昭和21年)によって作家活動を再開する。同時に妻である宇野千代が発行していた婦人雑誌「スタイル」を復刊する。その雑誌がヒットして銀座に自社ビルを建てるほどになり、一時は実業家と作家の2足の草鞋(廃語?)で活躍。しかしこの「魔に憑かれて」を発表したころから雑誌社の経営が厳しくなり、2年後に倒産。その後、昭和40年代には「平凡パンチ」などで官能小説を書く。
「魔に憑かれて」は先輩俳優と不倫を続けている新劇女優(これも廃語?)の心理の推移を、彼女の日記というかたちで描いている。冒頭の引用部分は、ヒロインが彼を受け入れてしまうときの自分の性的な姿態を許すことができず、デパートの屋上から投身自殺をはかろうかどうか逡巡するラストシーン。


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【新生】 [obsolete]

『重太郎は、袋のくしゃくしゃになった新生を取り出して火をつけた。吐いた青い煙が宙にもつれる間、つぎの質問の用意を考えていた。
「その電車は、たしかに九時三十五分着でしたか?」
「それはまちがいありません。私は博多で遊んで遅くなっても、かならずその電車にまにあうように帰るのですから」』
(「点と線」松本清張、昭和32年)

昨今の禁煙・嫌煙現象で、喫煙が犯罪になる日は近い。もはや条例で禁止するケースもある。「あなた、煙草やめますか? それとも人生やめますか?」なんてTVコマーシャルが出てきたりして。
「新生」は戦後まもない昭和22に発売され、その後何度かパッケージが変わり、昭和33年に写真のものに落ち着いた。値段は20本入りで40円。現在も170円で売られているので厳密にいえば“廃物”ではない。当時の愛好家がいまだに吸っているのだろうか。ちなみにピースは当時10本入りで40円、50本入りのピー缶は200円だった。その他、当時の比較的売れていた銘柄の値段は、富士50円、光30円、パール30円(以上いずれも10本入り)、いこい(20本入り)50円。
こうしてみると1本の単価では「新生」が2円と最も安い。労働者の煙草といわれたゆえんである。ちなみにハイライトが発売されるのは昭和35年、セブンスターは44年である。
小説の中で煙草を吸う場面はよく出てくるが、ほとんどは銘柄まで出さない。引用の「点と線」で吸っているのは刑事。水上勉の「爪」(昭和35年)でも「曽根川刑事は、半袖シャツの胸ポケットから新生を一本ぬいて……」という描写がある。取り調べ室で容疑者にすすめたり、刑事には欠かせない“小道具”だった。

「点と線」は松本清張の長編第一作で、昭和32年から33年にかけて雑誌『旅』に連載された。時刻表のトリックを使った斬新な推理小説だった。昭和30年代始めの推理小説ブームの口火を切った作品であり、作家であった。またこの作品は汚職が殺人事件の引き金になっていて、作家がスタートの段階から社会派推理小説を意図していたことが分かる。冒頭の引用部分は福岡署の鳥飼重太郎刑事が、被害者を目撃したという男から話を聞いているところ。鳥飼刑事は「よれよれのオーバーを着た四十二三の、痩せた風采のあがらぬ男……」で、この頃の推理小説に出てくる中年刑事はだいたいこんなところ。つまり、昭和30年代の日本のどの刑事も“コロンボ”を先取りしていたということになる。


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Softly As In The Morning Sunrise [story]

♪ 歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく
  あなたは坂を昇っていく わたしは後からついていく
  影はわたしたちを隔てるので やさしい夕陽は
  ときどき 雲に隠れてくれる
  歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく
  歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく

「歌ってよ夕陽の歌を」(詞・岡本おさみ、曲・吉田拓郎、歌・森山良子、昭和50年)

昭和40年代後半から50年代にかけて吉田拓郎が他の歌手に提供した楽曲は多い。モップスの「たどりついたらいつも雨降り」に始まって「襟裳岬」(森進一)、「メランコリー」(梓みちよ)、「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「地下鉄に乗って」(猫)、「ルームライト」(由紀さおり)、「やさしい悪魔」(キャンディーズ)、「我が良き友よ」(かまやつひろし)と名曲ぞろいだ。このうち「歌ってよ夕陽の歌を」のように岡本おさみとコンビの歌は「襟裳岬」、「地下鉄に乗って」「ルームライト」の三曲。
「歌ってよ夕陽の歌を」は、「襟裳岬」の翌年に発表された。リフレイン部分がとても印象的で、ときおり記憶の彼方から聞こえてくる歌だ。
夕陽を歌った歌も多い。拓郎なら「落陽」がそうだし、小林旭の「落日」、石原裕次郎と浅丘ルリ子の「夕陽の丘」、スパーイダースの「夕陽が泣いている」、松尾和子の「再会」などキリがない。日本人はほんとに夕陽が好きだ。私も。でも朝日もいい。

“ポプラ坂”は自動車一台がやっと通れる一方通行の坂。バス通りから、私が勤める会計事務所のある高台まで、ダラダラと300メートルほど続いている。正式な名前は知らないが、坂の登り口に小さな公園があり、そこに人間3人が囲ってもまだ足りないほど太い幹をしたポプラの木が1本立っているところから、そう呼ばれている。
私がこの坂を上り下りするようになったのは、今の会社に勤めはじめてからだ。毎朝、決まった時間に前傾でこの坂を昇っていく。晴れた日は朝日に背中を射抜かれ、己の影に引っぱられながら。
この坂を上りはじめてしばらくした頃、坂の途中、ちょうど「WOODY」といういかにもアメリカンな喫茶店のあるあたりで、毎日ひとりの女子高生とすれ違うことに気づいた。
彼女は、とくにどうという特徴のあるわけではなく、よく言えばいま風の女子高生だった。ただ、朝日を顔いっぱいに受けて坂を降りてくる姿は、とても清々しかった。

果たして彼女が、同じように私のことを意識していたか否かはわからないが、時折交差する視線には、少なくとも拒否反応は窺えなかった。もちろん、好意あるいはそれ以上の眼差しでもなかったのだが。私にしても好意はあったが、それ以上ではなかった。

彼女がセーラー服から私服に変わったのは、それから2年後の春だった。それまで無造作に後ろで結わえていた長めの髪が、ショートカットに。女性というものが髪形ひとつでかくも変わってしまうものかと小さな驚きがあった。それに、淡い紫のスーツ。2年間セーラー服と白のブラウスしか見てこなかった私としては目映いばかりだった。他人事ながら、若い娘の成長ぶりに驚かされた。それがまるでファッションショーのように、毎日違った服装ですれ違うのである。Yシャツなど言われなければ1週間でも身につけている着た切り雀の私には、それはそれで楽しい瞬間だった。

夏は眩しいノースリーブに柔らかなミニスカート。秋はシックなタートルとジャケット。冬はショートコートに可愛いマフラー、そしてロングブーツ。ふくよかだった頬はだんだんそぎ落とされ、精悍さを増していった。はち切れんばかりだった手足はまるで絞りきったようにシャープに変化していった。少女から女へ。みごとに脱皮を続けながらポプラ坂を降りていったのだった。

それから5年目の秋のある日。私は永久時計が時を刻むように、同じスタイル同じ歩調でポプラ坂を昇っていた。しかし、「WOODY」を過ぎても彼女の姿は現れなかった。そういえば、昨日も一昨日も、彼女とすれ違うことはなかった。病気にでも……、もしかして引っ越したのかも……。いやそうではないだろう。計算からいくと彼女も23歳。誰かを愛し、誰かと結ばれたとしても少しも不思議ではない。
私の予感が当たったかのように、一月、半年、一年が過ぎていった。別に彼女は私の理想のタイプでもなければ、恋い焦がれていたわけでもない。しかし、ときとして一抹の淋しさが胸に去来するのはなぜなのか。いわば7年間彼女の成長を見続けてきたわけで、まるで自分が育ててでもいるかのような錯覚に陥ってしまったのか。はたまた坂の途中でのすれ違いが日常化してしまい、その破綻に戸惑っているのか。とにかく、彼女を見かけなくなってしばらく空虚感がつきまとったことは確かだった。

それからふたたび5年。私はすでに30の半ば。いまだに独身で、いまだにポプラ坂を昇っている。仕事であれプライベートであれ、私の生活は凪いだ海。たしかに自分で望んだのかもしれない。しかし、その静けさに溺れてしまいそうになることがある。石ころを投げ込む無法者の出現を期待しているのかもしれない。

やっぱりそれは秋だった。弱くなった午前の陽ざしの中、落葉を蹴飛ばしながら、そろそろ靴を新調しなくてはなどと他愛のないことを思いつつポプラ坂を昇っていた。いつものクセで遙か前方を見上げたとき、視界に坂を降りてくる親子連れが見えた。
母親はあきらかに彼女だった。ランドセルを背負った息子と手をつないで。もう30歳になったのだろうか。眼鏡をかけ、ゆるいウェーブのロングヘアーは私よりはるかに大人の雰囲気があった。彼女は笑みを浮かべて息子に話しかける。息子も嬉しそうにからだ弾ませながら応じる。彼女を見かけてから12年、初めて笑顔を見たことに気づいた。それは小さな感動だった。すれ違いざま、彼女が上目遣いに私を見た。その視線の強さに私は目を逸らした。

それから、私たち3人は毎日「WOODY」の前ですれ違うようになった。

そのあとの1年間、ここでは書き尽くせない様々なことが私の身辺に起こった。私は30数年間という軌跡をねじ曲げてしまうほど、自分自身を見失ってしまったのかもしれない。遅ればせながら人生の意味を問い直すことに執着したのかもしれない。いずれにしても私は自らの手で内なる海へ小石を投げ込んだのである。
まず私は13年間勤めた会計事務所を辞めた。そして恥ずかしながら結婚した。現在は妻の実家の小さなスーパーマーケットで店長見習をしている。40歳目前にして義父に怒られながら。大変な転職である。
そんなわけで、もう毎朝決まった時間にポプラ坂を昇ることはなくなった。
しかし、日曜日の朝、私たちはいつも高台にある家からこのポプラ坂を降りて、遊びに出かけるのだ。そう、私たちとは、妻の瑞江といきなり10歳の息子になった慎一の3人のこと。それまでの背中ではなくからだの正面で浴びる朝日がこれほど気持のいいものとは。これも新しい発見だった。
「WOODY」で彼女とすれ違うあの不思議な感覚をもう二度と味わえないのは寂しい気もするが、その彼女が休日には私の隣で肩を並べてこの坂を降りていくのだから、それは贅沢な話というものだろう。


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【ドライ】 [obsolete]

『……今どきの娘さんは私らの年配の者からみると、羞恥心というものが、まるでないように見えます。じっさい、クラブにいる女の子たちでも、まったくこちらが赤面させられることがありますからね。とにかく順子さんというのは、今の言葉でいうと、ドライな娘だったと思いますね」』
(「爪」水上勉、昭和35年)

「ドライ」という言葉が流行ったのは昭和31年ごろといわれている。もともとは「乾いた」という意味だが、当時の語感は「割り切った」「さっぱりした」「非情な」といった意味。太陽族と時を同じくして出て来た言葉。20年代の「アプレ」と似た面が大きく、ドライのおかげでアプレが廃語化したといえるかもしれない。
「ドライ」の反対は「ウエット」だが、こちらはドライほど頻繁には使われなかったようだ。日本人は元来情緒的(ウエット)な人種で、「ドライ」という言葉の中には、“新人種”あるいは“異人種”をみるような羨望と蔑視の混在した複雑な感情があったのではないか。

「爪」は昭和35年から36年にかけて当時の雑誌「宝石」に連載された推理小説。丸の内に勤める若い女性がある夜失踪するところから話が始まる。日本が連合軍に占領されていた終戦直後の負の時代を背景として殺人事件が起こる。事件はさらに新たな事件に発展していく。アメリカ統治による日本女性の悲劇を描いた推理小説といえば、この2年前にやはり「宝石」で連載された松本清張の「ゼロの焦点」がある。当時、社会派推理小説の双璧と言われたのが、水上勉と松本清張だった。しかし、水上勉は昭和37年の「飢餓海峡」を最後に推理小説から離れ、「雁の寺」、「越前竹人形」、「五番町夕霧楼」といった運命に翻弄される女の哀しみを描いた作品や、「一休」「良寛」などの評伝に力を注いでいくことになる。


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【色眼鏡】 [obsolete]

『気味悪いほど顔立ちの整った、かっぷくのいい中年の紳士が、つれの少女のために装身具を選んでいた。俳優かなにかだろう、色眼鏡をかけた顔は、しかし、肌がざらざらに疲れて焼けている。もし、彼が俳優なら、つれの少女は娘ではなく、若い愛人だったかもしれない。』
(「悲の器」高橋和巳、昭和37年)

この場合の「色眼鏡」は色つき眼鏡、サングラスの意味。偏見をいう場合に「色眼鏡でみる」というが(これもあまり使わないかな)、その意味ではない。今でこそ、ブラウン、ピンク、ブルー、グレーなど、レンズに様々な色のついた眼鏡があるが、昭和30年代はそれほどバラエティに富んではいなかった。引用文は黒眼鏡のことだろう。
30年代前半はサングラスともいわず、色眼鏡あるいは黒眼鏡といった気がする。この小説のなかで他にもレンズのことを「眼鏡の玉」といっているが、これも現在ではほとんど使わない。
話は逸れるが、引用した文面を見ると、この作者の俳優に対する偏見、蔑視というような意志が感じられる。もはや河原乞食と蔑まれる時代ではなかったはずなのだが、インテリゲンチャのエンターテイナーに対する冷眼視は当時も今もということか。

「悲の器」は高橋和巳の処女作「捨子物語」(昭和33年)から4年後の作品で、第1回の文藝賞受賞作。物語は妻を亡くした大学の法学部教授が娘ほど年が離れた女と再婚する直前に、家政婦だった女に損害賠償の訴訟を起こされるというスキャンダルから始まる。結局、教授は地位も名誉も、新しいパートナーも失ってしまう。しかし、これはあくまで膨大なサブストーリーで、メイン・ストーリーは戦前・戦後にわたって大学の、さらに日本の民主化がいかになされてきたか、なされてこなかったかを主人公を通して批判していることなのである。
60年代から70年代始めににかけて、高橋和巳の著書は左翼学生のバイブルだった。21世紀になり、高橋和巳の“神聖”に輝きが失われたように見えるのは、日本の中で左翼運動そのものが停滞、衰退してしまったということが大きい。果たして復権の日はくるのだろうか。


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【ズベ公】 [obsolete]

『「然し、重岡君のような純な青年を、あンまり惑わしてはいけないぞ」
「あら、そんな風に言うと、まるであたしが、ズベ公みたいね。あたしだって、まだ   純よ、濁ってなンかいませんよ」
 と竜子は抗議せずにはいられなかった。』
(「白い魔魚」船橋聖一、昭和31年)

「ズベ公」とは不良少女のこと。昭和40年代くらいまではよく使われていた。江戸時代からの外来語スベタ(婦女の蔑称)から転訛したという説もあるが、これはどうやら誤りで、「ずべら」(=ずぼら)からきているというのが定説。つまりだらしがない少女のことで当初は主に女学生に使われていた。「処刑の部屋」(石原慎太郎、昭和31年)には「……女が堅気だの、ズベってるのてんじゃねえんだ、……」という描写がある。
「フラッパア」や「アプレ」よりは犯罪性が感じられる言葉。どうかするとカミソリ、チェーン、ナイフなんかを持っていそうな。40年代後半にロングスカートの「スケ番」が現れてから消えていった言葉のような気がする。

「白い魔魚」は岐阜から東京へ出て来た女子大生・竜子の自由奔放な生活を描いた風俗小説で朝日新聞に連載された。いわば昭和30年代はじめの「当世女子大生気質」というところ。冒頭の引用部分は、主人公の竜子が神宮プールで、彼女に好意を寄せる吉見にボーイフレンドとのことを注意され、反駁する場面。
この小説は、大学生の生活を描いているということで、当時の先端のファッションあるいは風俗、流行り言葉などがふんだんに出てくる。たとえばファッションでは「タフタのブラウス」「ナイロンシャンタンのスカート」「トレアドルパンツ」「バックレスの水着」「サブリナ・シューズ」等々。また、もともと使われていた「Hネ」とか「最低ネ」という女子大生言葉もこの小説によって敷衍されたといわれている。いずれにしても、30年代はじめの大学生活の考証になることはもちろん、時代の雰囲気を感じるためにはもってこいの小説といえる。


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Moonlight Serenade [story]

♪ 下町の恋を育てた太陽は
  縁日に二人で分けた丸いあめ
  口さえきけず別れては
  祭の午後のなつかしく
  あゝ太陽に 涙ぐむ
(「下町の太陽」詞・横井弘、曲・江口浩司、歌・倍賞千恵子、昭和37年)。

東京が世界で最初の1000万人都市になったこの年、倍賞千恵子はこの歌でレコード大賞の新人賞を受賞した。ちなみに大賞は橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」だった。「下町の太陽」は山田洋次によって映画化され、倍賞千恵子が主演した。そのヒロインがのちの「男はつらいよ」のさくらにつながる。
作曲の江口浩司は他に「いのちの限り」(大津美子)、「忘れな草をあなたに」(倍賞千恵子、菅原洋一他)などのヒット曲がある。父親は「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)や「赤いランプの終列車」(三橋美智也)の作曲家・江口夜詩。
横井弘はいわずと知れたキングレコードの看板作詞家。昭和20年代から40年代にかけて多くのヒット曲を作った。主なものをあげると「あざみの歌」(伊藤久男)、「哀愁列車」(三橋美智也)、「山の吊橋」(春日八郎)、「川は流れる」(仲宗根美樹)、「さよならはダンスの後で」(倍賞千恵子)、「虹色の湖」(中村晃子)。

町子ちゃんが僕の住んでいるアパートに越してきたのは、僕が小学6年生のときだった。僕の家族は両親と中学2年の姉の4人。町子ちゃんはお父さんと二人暮らし。4畳半一間という間取りは同じで、僕は単純に家族の少ない町子ちゃんの家が羨ましいと思った。
町子ちゃんは小学3年生で、手足がゴボウのように細い子だった。色が黒く無口で、大きな眼はいつも何かを睨みつけているようだった。転校生なので、慣れるまでは僕が学校へ連れて行くことになった。それがとても嫌だった。近所の仲間にも、級友たちにも冷やかされるに決まっている。

僕はできるだけ早足で歩いた。それを彼女が小走りに追いかけてくる。それを見た姉が告げ口して母から叱られた。2日目からは並んで歩くようにしたが、僕の顔はきっと歪みっぱなしだったに違いない。町子ちゃんは登校中ひと言も喋らない。僕も声を出さない。校門を入ると、僕は彼女を置き去りにして全速力で昇降口まで駆けていったものだった。

困ったのは放課後のこと。学校から帰って、ランドセルを置き、野球のグローブを持ってアパートの門を飛び出すと、正面の鉄工場のコンクリート塀に町子ちゃんが寄りかかっているのだ。僕は彼女を見ないようにして歩いていった。しばらくして振り返ってみると10メートルほど後ろを知らん顔しながら着いてくる。
僕が原っぱで友だちと野球をやっているあいだ、町子ちゃんは少し離れたところで座り、膝を机代わりに、頬杖をついてゲームを眺めていた。あたりが暗くなり、ボールが見えにくくなるとゲームセット。明日の対戦を約束して僕らはちりぢりになる。帰り道、夜空に貼り付いた月を見上げながら、後ろから着いてくる町子ちゃんが闇にさらわれないかと気が気ではなかった。

ようやく、彼女も学校へ行く道を覚えたので、連れ立って登校せずにすむようになった。そんなある日、学校から帰ってくると母が「町子ちゃんを夜店に連れて行ってあげてね」と言った。僕は友だちの豊くんたちと一緒に行く約束があるからと抗議した。「今度だけよ。まだお友達ができないんだから仕方ないでしょ」。母の言葉に反論できなかった。

夜店は毎週土曜日、駅前の商店街通りに立ち並ぶ。月に一度は家族で出かけていた。6年生になってからは友だち同士で行くことも黙認された。
「お小遣い持ってるの?」「友だちに会ったら一緒に行っちゃってもいいよ」「すぐ帰りたいって言っちゃだめだよ」。僕が何を言っても、町子ちゃんは口を真一文字に結んで、頷いたり首を振ったりするだけだった。
町子ちゃんは女の子らしく、ビーズやぬり絵の店で立ち止まった。僕は興味がないのでさっさと行ってしまう。すると彼女は見るのを諦めて追いかけてくるのだった。途中で豊くんたちと出会った。僕は金魚すくいの店を指さし、町子ちゃんに、
「ここで待っててね、ちょっと友だちの所へ行ってくるから」
と言って、離れていった。振り返ると、彼女はもうしゃがんで金魚すくいを眺めていた。

僕は友だちと店を見て回るのに夢中になり、すっかり町子ちゃんのことを忘れていた。あたりの人通りもずいぶん少なくなった頃、僕は友だちに別れを告げて駆け足で夜店通りを戻っていった。待ちくたびれた町子ちゃんはひとりで帰ってしまい、僕は母からこっぴどく叱られる。そんなことを想像しながら。
金魚すくいの店はいましも店仕舞いするところだった。その傍で町子ちゃんが立って、僕の方を見ていた。僕はホッとして近づいた。すると彼女のキツイ顔が一瞬歪んだ。ハッとして僕は、「ごめんよ。遠くまで行っちゃったもんだから」と言い訳した。そして「一緒に帰ろう」と言うと、彼女は手の甲で涙を拭きながら笑って見せた。初めて見る町子ちゃんの笑顔だった。僕たちは月の光に照らされた夜道を帰っていった。お互いに黙ったままで。

それからひと月ほど経ったある日、僕が学校から帰ってくると、知らないおばさんに連れられてアパートの門を出て行く町子ちゃんと入れ違いになった。その夜、夕食のときの父と母の会話に僕は耳をそばだてていた。詳しい事情はわからなかったが、町子ちゃんのお父さんが、越してくる前にわるいことをして警察に捕まったのだとか。それで町子ちゃんは親戚の叔母さんに引き取られていったのだった。僕はそのとき初めて、母親をそして今度は父親を失った町子ちゃんの悲しみに思い至った。そして両親の話の中にでてきた、彼女が連れて行かれた親戚の家がある「大泉学園」という地名が、なぜか記憶の中に残った。
それから時々町子ちゃんのことを思い出すことがあったが、そんなときの彼女はいつもあの夜店のときのような泣き笑いの顔だった。

あれから10年の年月が流れた。僕が社会に出て、ひとり暮らしをはじめたとき、大泉学園にアパートを借りたのはあの時の記憶があったからである。ただ、そこで彼女と再会することになろうとは夢にも思っていなかったのだが。


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【ヒロポン】 [obsolete]

『「ひどいヒロポンの中毒症だったが、それもきれいに治った。それだけでもセピア教は、僕にとっては生命の恩人だ」
「なかなか霊験あらたかなようだね。掌を、いったいどういうふうにかざすのか」
「掌を上に向けて、かざすだけだ。十分か二十分の間だ。ひとによっては、掌から発射される光が見えるという。……」』
(「蛇と鳩」丹羽文雄・昭和27年)

「ヒロポン」Philopon とは覚醒剤で、塩酸メタンフェタミンの商品名。商品名というぐらいなので、かつては大ぴらに売られていたのだ。戦前から眠気覚ましとして使われ、戦時中は特攻隊の士気を鼓舞するためにも使われたとか。戦後はその恍惚作用を求めて、芸能人や文士、さらには一般の若者も常用するようになった。ちなみに、文士の無頼派と言われた、織田作之助、坂口安吾、太宰治は、いずれもヒロポンによりその寿命を縮めている。いずれにせよ、戦後、希望を失ったり、不安を覚える人間の拠のひとつではあったわけだ。しかし、中毒症による精神障害などが指摘され、昭和24年、取り締まりの対象となった。それから半世紀以上を経て、ヒロポンは消えたが、それに替わる覚醒剤はいまだ新聞の社会面を賑わせている。

戦後、このヒロポンと同じように民衆に広まっていったのが新興宗教。その新興宗教をモチーフにして丹羽文雄が描いたのが「蛇と鳩」だ。新興宗教団体をつくることで金と権力を手にしようとした男とそれに巻き込まれていく男の話。最終的に教団は脱税容疑で弾圧され、野望は潰えるのだが、作者は百パーセントその男を否定してはいない。
新興宗教の問題もまた、21世紀になってもほとんど変わることがない。「宗教は麻薬だ」と言ったのはマルクスだったが、ともに人間個人の脆弱性を顕在化させるものということばかりではなく、権力がその蔓延、浸透を怖れるという意味でもよく似ている。


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【スマート】 [obsolete]

『「痩せはりましたな」
「そういうあんたも少し……」
「痩せてスマートになりましたやろ」
「あはは……」
 それが十銭芸者の話を聴いた夜以来五年ぶりに会う二人の軽薄な挨拶だった。笑ったが、マダムの窶(やつ)れ方を見ながらでは、ふと虚ろに響いた。』
(「世相」織田作之助・昭和21年)

「スマート」smart の本来の意味は「気のきいた」「洒落た」「今ふうな」、あるいは「ずるい」「鋭い」など。これも古い言葉で、昭和のはじめ頃の小説にすでに登場している。ただ、日本では前者はともかく後者の意味ではあまり使わない。たとえば「男の遊びっていうのはスマートにいきたいもんだね」などと、「格好良く」あるいは「粋に」という意味で使われていた。
それよりも多く使われたのが、引用した文にあるように「体型がスッキリしている」さらには「痩せ気味」などという意味。
「もっとスマートになりたい」と思うのはいつの時代でも女性の願望だろう。それがもはや廃語化しているというのは、多分「スマート」に代わる言葉「スリム」が言われだしたからだろう。かつて女性雑誌などの痩身(ダイエット)広告で、しばしば登場した「スマート」も代替語の登場によって、あっけなく没落してしまったというわけだ。

「世相」は主人公の文士が戦前言い寄られたバーのマダムや、一時阿部定を囲っていたという天ぷらやの主人に、戦後ヤミの料理屋で再会するまでの話。当時の大阪の風俗をス
トーレとに描いた作品だ。当時、これを読んだ志賀直哉が「不潔だ!」とばかりに掲載雑誌を投げ捨てたという。今読むと、どこが逆鱗にふれたのか分からないのだが、当時としては大小説家を激怒させるほど、新鮮でインパクトのある作品だったということだろう。
織田作之助は大正二年大阪天王寺で生まれた。本格的な作家活動を始めたのは昭和13年頃で、代表作は15年に書かれた「夫婦善哉」。戦中から結核に冒され、それに加えてヒロポン(覚醒剤)を常用し、その影響もあって「世相」を発表した翌年の昭和22年、34歳という若さで生涯を閉じた。
戦後、太宰治、坂口安吾とともに無頼派と呼ばれた。


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【マンボ・ズボン】 [obsolete]

『……彼は、私の故郷の農村にいるのに、まるでヤクザのような服装をしているのだ。しかもそのジャンパーもマンボ・ズボンも新しかった。おそらく彼は、上京するにあたって、それが東京での最新の流行だと思って買い整えたのかも知れない。しかし、田舎にいるのにその顔は日焼けしていないで、のっぺりと白いのである。』
(「媒杓人」椎名麟三、昭和37年)

「マンボ」は知られているようにラテンのリズムのひとつ。1940年代、キューバのペレス・プラードがルンバをアレンジして創作したといわれている。昭和31年、そのプラードが来日し、日本でもマンボブームが起こった。しかし音楽以上に流行したのがファッション。プラードや楽団員が身につけていた細身のズボンが若者に受け入れられた。それが「マンボ・ズボン」で、それに大きめのジャケットを着るとマンボ・スタイルになる。その2年後にはロカビリー旋風が吹きまくるのだが、ロカビリアンたちはおしなべてマンボ・スタイルだった。いずれにしても、椎名麟三が「ヤクザのような」と書いているように、大人たちからは顰蹙ものだった。
現在でも原宿あたりにはロックン・ローラーが踊りまくっているが、彼らが穿いているデニムあるいはレザーのズボンはまさにマンボ・スタイルを今に伝えているといえる。

引用の場面は、小説家のもとへ、故郷の農村で義理で媒妁をした若者が大荷物を持って転がり込んでくるところの話である。何事につけ傍若無人の闖入者に振り回され、イライラをつのらせていく小説家。妻はその若者をめずらしがり、すこしも夫の不満を理解しようとしない。それどころか同情して下着まで買ってやる始末。それがまた夫の怒りに火をそそぐ。最後には温泉で書き物をしようと、家を出る小説家だったが、とどめを刺すように火事で温泉は消滅している。バスから降ろされた闇夜の海岸で来るあてのない通行人を待ちながら、煙草を吸おうとマッチを擦るが、なんど擦っても風で消えてしまう、というところで小説は終わっている。椎名麟三お得意の悲喜劇である。


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Who Knows Where The Time Goes [story]

♪ 恋の終わりはいつも同じ
  だけど今度だけ違うの何かが
  回る人生のステージで
  踊るあなたの手ふるえてきれいね
  あなた愛して 気づいたことは
  そうね 私もいつかは 死んでいくこと
  涙流すことないのね
  踊り疲れたら いつかは帰るわ

「踊り子」(詞・曲・歌・下田逸郎、昭和49年)。
現役の吟遊シンガーソング・ライター。元東京キッドブラザースの音楽監督。そのせいかsong、wardともにドラマチックな歌が多い。他では石川セリも歌っている「セクシィ」、「恋に生きる女」、「君が消える日」、「夢かうつつか幻か」などいい歌がある。
この「踊り子」はほとんどカヴァーをしない松山千春がレコーディングしている。中島みゆきの「わかれうた」には♪ 恋の終わりはいつもいつも というオマージュともとれるフレーズがある。
「踊り子」の同名異曲にはフォーリーブス(昭和51年)、村下孝蔵(昭和58年)があり、「踊子」(三浦洸一、昭和32年)なんて古い歌もある。どれもいい歌だ。さらには「ダンサー」あるいは「伊豆の踊り子」のような歌もある。今も昔も「踊り子」という言葉にはドラマチックな匂いがする。

「いらっしゃい」
おやおや、いつもの時間に来るところを見ると、今日もヒマなんだな。いずこも同じ閑古鳥ってか……。
「いつもので?」
『お願いね』
染香さん。ひと月ほど前からここの斜向かいの「マリアンヌ」って店に出てるお姐さん。この時間が休憩時間らしくて、忙しくない時は必ず一杯ひっかけに来る。ここんとこ毎日だから、「マリアンヌ」の繁盛具合がわかろうというもの。それにしてもいくら近いからって、こんな汚い店で休憩になるのかねえ。表通りまで出れば小ぎれいな店があるのに。
『おとといの競馬獲らしてもらったわよ。アリガト』
ジントニックをひと口含んで染香さんはそう言った。めずらしくオレの予想が当たったのだ。
「はあ。たまたまですよ」
『今週はなんだっけ? そうそうダービーね。土曜日にまた教せえてね』
「だめですよ。私の予想なんか信じちゃ。毎度毎度当たるもんじゃないし」
『いいのよ。遊びなんだから』
「プレッシャーですね……」
染香さん。なんか芸者みたいな名前だが、もちろん本名じゃない。年の頃は……。そう、この世界では、年齢、家族、過去は聞かないことがルールなんだ。とはいいつつも、いつの間にやらそうした“隠しごと”が広まってしまうってのも、この世界の常識なんだな。遠目では30そこそこだが、不十分な照明とはいえ、こうしてカウンターの前でまじまじと拝顔すると、ルージュのひび割れといい、目尻、口元の皺といい、まあ40は越えてるんじゃないかな。だけどこの人、手の甲がとてもキレイなんだ。細くてサラッとしてて、まるで少女みたいなね。グラスを持つ手がとてもセクシー。人間歳を隠しきれないのが手だっていうけど、染香さんは例外だね。

『マキちゃん、なんかかけてよ』
「はあ。カラオケでもやりますか」
『まさか。聴衆がアンタひとりじゃ、美声は聴かせられないわ。ハハハハ……」
「かけるって、オーナーの趣味ですからジャズとかラテンとか、古いアチラもんしかありませんけど」
『ハハハ……、このお店にお似合いね。なんでもいいわよ。あと10分ぐらいっきゃないんだから』
染香さん、若い頃はダンサーだったそうだ。そうそう、“マキちゃん”ってのは私のことで。まあそれはともかく染香さんの話。なんでも、いい時は舞台やテレビでシンガーのバックダンサーをしたり、華やかだったらしいよ。でも、どこの世界でも同じだけど、毎年新人が入ってくるとその分、年のいった人間はトコロテン式に追い出される。うまくやる娘は、いい相手みつけて専業主婦になったり、パトロンにダンス教室の資金を出してもらって先生におさまったり。でも要領のわるい娘もいる。そういう娘はやっぱりこっちの世界へ来ることになっちゃうんだってね。
彼女も、舞台じゃ色気を振りまいても、私生活で男に媚びるのは真っ平っていう不器用な質。おかげで気づいたら地方のキャバレーで半裸で踊ってたとか。それでも踊れるうちはまだ良かった。そのうち腰を痛めてギブアップ。いつかもしかって、いまだにレオタードやコスチュームはしまってあるってさ。泣かせるよね。
それでもダンサー辞めたばかりの頃は、銀座のそこそこの店に出てたって。それが、3年経ち5年経ちして湯島、小岩、松戸って、だんだん都が遠くなるって具合。とどのつまりがこの町だもの。それも表通りの店ならまだしも、ここの横丁へ来たんじゃ、わるいけどもう浮かぶ目はないな……。器量だってそんなにわるくはないんだけどね……。

『懐かし~い。マイアミビーチ・ルンバ。ザビア・クガートだっけ』
染香さんが2杯目のジンを飲みながら、オーディオから流れる音楽に瞳を輝かせた。
「さすが、お詳しいですね」
『そうよ。コレでよく踊ったもの。ウレシイ。今日いちばんの良い出来事ね。良い音楽聴かせてくれてありがとね、マキちゃん』
「いえ、こんなものでよかったらいつでも」
……今日いちばんだなんて、そんなこと言わないでくださいよ。まだ夜はこれからですよ。あの目、ホントに昔を懐かしんでるって感じ。きっと、好きな男とうまくいっていた頃なんじゃないかな。
『もっと聴いていたい気分だけど、お店のほうがあるから。じゃあこれで。お釣りはいいのよ』
「まずいですよ。こんなには……」
『いいの。競馬で儲けさせてもらったし、いい音楽聴かせてもらったもの、お安いものよ』
「そうですか。じゃ、遠慮なくいただきます。……そうだ、ちょっと待ってください」
オレはプレーヤーをとめ、ディスクを取りだした。
「お姐さんとこ、CDプレーヤーありますか? そうですか。それなら、これ持ってってくださいよ。そして続きは家へ帰って聴いてください」
『ええ、ホント? いいの? わるいわね。でも、アタシ忘れちゃって返さないかもしれないわよ』
「いいんですよ。貰っちゃってください。どうせ私んじゃないんだから。なんなら他にも何枚か持っていきますか?」
『ハハハ……、バカ言ってるわ。そんなら、遠慮なく借りてくわね、コレ。アリガト』
そう言ってウインクをすると染香さんは店を出て行った。あの後ろ姿、こんな町に置いておくのは惜しいぐらいの貫禄なのにな。なんでかね……。世の中1プラス1は必ずしも2じゃないってことなんだよな……。ああゝ、オレもそろそろ潮時だな……。
染香さんが締め残したドアの隙間から夜の冷気が伝わってきた。それでもオレの指先には、いまさっきCDを渡す時に触れた彼女の手の暖かな感触が残っていた。


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【アバンチュール】 [obsolete]

『やがて夏がやって来た。竜哉は兄の道久とヨットを塗り直した。これは彼等兄弟の年中行事の一つである。パテを詰め、ペーパーをかけ、丸みを帯びたシーホースの船体を、女が肌の手入れをするように丹念に仕上げながら、彼等は去年の夏を思いだし、今年の数々の出来事(アバンチュール)を想像してみるのだ。……』
(「太陽の季節」石原慎太郎、昭和30年)

「アバンチュール」も古い言葉で、明治末には使われていたようだ。森鴎外の小説にも出てくる。最近でこそあまり聞かないが、昭和の後半でもよく耳にしたような気がする。「恋のアバンチュール」とか「深夜のアバンチュール」とか、週刊誌の見出しにはもってこいの言葉だった。
aventure はフランス語で冒険とか、ラヴ・アフェアーの意味。日本では引用した「太陽の季節」でもそうだが、恋の冒険として使われていることが多いようだ。もちろん色恋ぬきのアバンチュールもある。昭和22年の「青い山脈」(石坂洋次郎)では、六助が、新子の父親のために、リンゴを農業会(今の農協?)に黙って県外へ運び出すことを手伝った事件を、「アバンチュール」と言っている。
言葉の響きの心地よさ、はたまた他に取って代わる気の利いた言葉が見あたらないことから、いずれまたこの言葉がもてはやされる時代が来るかもしれない。

昭和31年の芥川賞受賞作である『太陽の季節』は、小説のインパクトというより、当時の若者の風俗や精神性に与えた影響も大きかった。象徴的なのが「太陽族」であり「慎太郎刈り」である。その年すぐに日活で映画化され、「太陽族」の流行語と共に同系の映画が作られていった。良識ある大人は、太陽族を不良とみなしたが、若者には歓迎された。小説の登場人物が不良大学生のボンボンたちであるにもかかわらず、当時若者の大半を占めていた中卒、高卒のあんちゃんたちまでが、その雰囲気を己のものとして生きていた。この小説が世にでなければ、あるいは石原慎太郎という人物が小説を書かなければ、おそらく石原裕次郎は現れなかっただろう。その意味からもこの作品の文化・風俗に与えた影響力は大きい。


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