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WHERE THE BOYS ARE [story]

 

これは、まだ「バレンタイン・デー」なるものが日本に存在しなかった頃の話。


銭湯から出ると、群青の空から小雪が舞い降りていた。
その一片が上気した房江の頬にとまった。やさしい冷たさだった。

「積もるのかしら、いやだな」と思いながら房江は夜道を急いだ。洗面器を持つ手があっという間に冷たくなっていった。

銭湯から房江の住むアパートまでは歩いて7、8分かかる。周囲はほとんど畑と、壌成地で所々に民家が点在している。街路灯も50mほどの間隔で点いてるだけ。それでも房江の生まれ育った山陰の村よりはましだった。

4人兄妹の3番目、兄2人に妹がひとり。房江は学校でも家庭でも目立たない子だった。決して自分を主張しなかった。
そんな房江が中学を卒業したら東京へ出たいと言ったとき、両親はもちろん担任の教師も驚いた。彼女の通う中学では、卒業生の半分が高校へ進学し、残りの半分は家の手伝いか就職。就職といっても、バスで30分ほどの港町にある海産物問屋の店員か、魚の加工工場がほとんどだったのだが。

地元での就職をすすめる周囲の声を、房江はまったく聞き入れなかった。頑なに東京へ行くという意志を譲ろうとしなかった。生まれてはじめての自己主張だった。

結局、担任教師の骨折りで房江の希望は叶った。東京の郊外にある家電メーカーの工場だった。

房江が東京へ行こう、というよりこの家をこの村を、さらにはこの町を出て遠く離れた所で暮らしたいと思い始めたのは中学二年の夏だった。

ある夜半、房江は胸苦しさに布団の上で眼を覚ました。と同時に誰かの手が彼女の口を塞いだ。そしてそのあとすぐ両目も被われた。その瞬間垣間見えたのは、彼女と10歳あまり離れた村役場に勤める長男の顔だった。
怖かった。房江は本能的に自分の中の女が暴力を被ろうとしていることがわかった。それが具体的にはどういうことかわからなかったが、漠然ととりかえしのつかないことが起きるという恐怖に襲われていた。あらん限りの力で自分の上に覆い被さる人間をはね除けようとした。しかし、押さえつけられた身体はまったく動かなかった。
そして、彼女は気を失った。

翌朝目覚めた彼女に、夜中の記憶ははっきり残っていた。
誰も起きてこないうちに彼女は風呂場へ行った。そして、裸になって自分の身体を眼と手でくまなく調べてみた。しかし、何の変化もなかったし、何の違和感もなかった。

「あれは、夢だったのだろうか……」彼女は思った。しかし、あの恐ろしい兄の顔は真新しい刻印のように記憶に刻まれている。「わたしが気づいたので、そのまま自分の部屋に戻ったのかも知れない……」。誰にも相談はできず、真相はわからないままだった。

その日から房江は長男と眼を合わせることができなくなった。
もともと交流の少ない兄妹だったが、それ以来、長男も房江を避けるような態度をとるようになった。少なくとも彼女にはそう感じられた。

そのことがあってから一年半あまりのちの春、房江は家族と担任の教師、そして数人の同級生に送られて、東京へと旅立ったのだった。

故郷の景色が次から次へと消えていく。車窓から外を眺める房江の胸は喜びにときめいていた。自分の望みが実現していく実感にうち震えていた。生まれてはじめて感じる喜びだった。唯一の心残りは、5つ下の妹のことだけだった。しかし、房江は「よほどのことがない限り、もうここへは帰ってこない……」そう心に決めていた。


あれから5年。房江は二十歳になった。
仕事にはすぐ慣れたし、寮生活にも慣れた。同じように地方から出てきた同僚ともすぐにうち解けた。何度か男子の工員から映画を誘われることもあったが、応じる気にはなれなかった。兄の一件以来、男に対する恐怖心もあったが、それよりも声をかけてくる工員たちに胸がときめかなかったのだ。

かといって、男に対する理想像があるわけではない。自分が、恋愛とか結婚とか、男と女のことがらについては奥手なのだという思いはあった。寮の同僚たちが話す恋愛ストーリーは自分には無縁なこと、そう思っていたのだ。

そしてちょうど一年前、彼女は寮を出ていまのアパートを借りたのだった。
4年頑張って給料も少しは上がり、わずかだが住宅手当も出るということで、なんとか家賃を払えるめどが立ったのだ。一人暮らし、これも房江のささやかな希望だった。

朝起きて会社へ行く。勤めを終えたら、駅前で買い物をしながらアパートへ帰る。
着替えると簡単に夕食の支度をすませ、銭湯へ向かう。そして、部屋に戻り夕食を摂るのだ。そのあとはラジオを聞きながら好きな編み物をしたり、会社の友達に借りた流行雑誌を読んだり、妹に手紙を書いたり……。
休日は掃除、洗濯。そしてたまには郊外電車で隣町へ行き、駅前のデパートでウインドウショッピングをする。

時計が時を刻むような寸分ちがわない毎日。それでも房江は楽しかった。
なぜかつまらなかった学生時代よりはるかに楽しい毎日だった。
一室三人で暮らした寮生活はやはり他人への気兼ねがあったし、ラジオひとつとっても自分の聞きたい番組をいつも聞けるというわけではなかった。

それが、このアパートでは好きな流行歌をいつまでも聞いていられる。アナウンサーの冗談に大声で笑うことだってできる。この生活が永遠に続いたとしても、それはかまわない。房江は本気でそう思っているのだった。


空から落ちる雪が大粒になってきた。
房江はトッパーの襟を立て家路を急いだ。洗面器を持つ手が凍てついていた。それでも心の中はあたたかい。
彼女のいまいちばんの楽しみは、今年の春中学を卒業する妹が、自分の働いている会社へ就職してくることだった。強くすすめたわけではなかったが、妹の希望はうれしかった。はじめの数年はやはり寮での生活になるだろうが、いずれ2人で暮らしたい。そんなことを考えるといつもひとりでに笑みが湧いてくるのだった。

積もりはじめた雪に被われた道。4、5軒の家が密集しているあたりに古いアパートがある。そこを左に曲がって道なりにすすむと、房江が住むアパートまで2分ほどで着く。

激しさを増してきた雪に思わず小走りになりかけたとき、そのアパートの階段からもの凄い勢いで人が下りてきた。そしてその男は最後の数段で足を踏みはずし、ドドドッと地面へずり落ちた。

急なことで、房江は心臓が止まりそうなほど驚き、足を止めて後ずさった。
街路灯の光で見えたのはぶざまな格好で尻餅をついている、右手に蝙蝠傘を持った若い男だった。男は房江と眼が合うと、一瞬笑った。そしてすぐに真顔になって立ち上がった。

「こ、これ。使ってくれ。か、か、返さなくてもいい。すて、捨てていいから」

男は房江に近づいて、持っていた傘を差しだした。
房江は右手で自分を抱きしめながら、さらに後ずさった。おびえながらも、再び男の顔を見た。コワイ眼だった。そのとき彼女は心の中で「あっ!」と思った。

房江はその男を知っていた。名前も素性も知らないけれど、通勤の朝、道や駅で何度かみかけたことのある男だ。一度駅のホームで視線を感じて顔をあげると、その男の視線とぶつかったことがあった。コワイ眼だった。そのときの印象が強く残っている。
それ以来、男をみとめるとなるべく見ないように俯いたり、顔をそらすように心がけていたのだ。

男は蝙蝠傘を房江の右手に押しつけた。そして勢いにつられて彼女が思わずそれを握ると、背を向けて一目散に階段を駆け上っていってしまった。

彼女は黒い傘をかざしながら夜道を歩きはじめた。なにかを考えようとしていたが、うまくまとまらなかった。そして、何気なく後ろをふり返った。
あのアパートの2階の部屋に灯りが点っている。そこにシルエットとなった男の影が見えていた。房江は思わず傘をあみだにして頭を下げた。すると、見られまいとするかのように男の影は一瞬にして消えてしまった。

自分の部屋に戻った房江は、いつものように夕食を食べる気持ちになれなかった。
ちゃぶ台の前にすわったまま、好きなラジオのスイッチもいれずにじっとしていた。考えていた。いや、次から次へと思考がめぐってきて、立ち上がることができなかったのだ。

何度も浮かび上がってくるのは、あの男の眼だった。それもいつかホームで見たあのコワイ眼ではなく。階段から落ちた男が照れ笑いしていたときの、あのやさしい眼だった。

房江の胸の中はざわめいている。
心の奥底にある小さな森の木々の葉音が聞こえるのだ。風が吹いているのだ。なんともここちよい風。そのとき、自分の手に触れたあの男の指先の感触が甦った。やわらかくてあたたかい手だった。思わず涙がこぼれた。

そして、部屋の上がりかまちに立てかけてあるあの黒い蝙蝠傘。あの傘を明日、なんと言って返したらよいのだろうかと考えた。するとなぜか胸がときめくのだった。

ふと日めくりのカレンダーに目をやると、2月14日だった。


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その名は●ケンさん番外編① [story]


そういえば、わたしにも「ケンちゃん」がいました。
いや、“ちゃん”なんて呼んだら怒られちゃう。わたしの母の弟、つまり叔父さん。謙治さん。死んだわたしの父親が「ケンちゃん」って呼んでました。

そのわが愛すべき謙治さんのことを少し。

「ケンちゃん」、4人姉弟の末っ子。上三人はすべて女。
そんなわけで、母親にめいっぱい甘やかされた。おまけに、父親は生まれたときには何処かへ蒸発、その顔もしらない。

諸もろ条件重なりまして、ケンちゃんみごとに“不良道”へまっしぐら。
中学の頃には、芋版をつくり親の郵便貯金を引き出しては仲間に大盤振る舞い。手先が起用というか、郵便局がユルかったというか、のんきな時代ではありましたが。

中学は1年で“卒業”。親のツテで勤めたところは町いちばんの酒問屋。ところが半年も経たずに出入り禁止の放逐処分。
なんでも、毎日のように酒瓶を“お持ち帰り”になっていたのがバレたとか。

ケンちゃん、一杯呑めば顔が火事場の金時になってしまうほどの下戸。みんな友達に呑ませるための悪行。とはのちのちの本人の言い訳。姉三人の女性陣に言わせると「知り合いに売って金にしていた」とか。

母親のなりふり構わぬ謝罪で警察沙汰だけは免除。そしたらケンちゃん、3日も経たずにトンズラ。なんでも友達を頼って大阪へ行ったという“らしい話”だけ残して、その行方は知れず。

戦争が終わり、復員兵は還ってもケンちゃんは帰らず。母親「岸壁の母」(菊池章子)ならぬ“癇癖の母”に。結局、母親が死んでも行方は不明。
生きているやら死んでいるやら。姉たちいわく、
「空襲で死んだのなら連絡があるはず。多分また悪さして刑務所にでも入ってるんじゃないかい」

女のカンは鋭い。半分当たり。
ケンちゃん、刑務所ではなく療養所に入っていた。それが分かったのが戦後も10年以上経った頃。昭和30年代。もはや戦後ではないって。
結核がようやく癒えて、めでたく退院とあいなりにけりだったが、なんでも身元引受人が必要。ケンちゃん、15の歳に迷惑をかけた肉親には、金輪際会うまいとの決意で故郷をでたのだが、背に腹は代えられない。

わたしの母が身元引受人として大阪へ。
それからケンちゃんは我が家の住人とあいなりました。すぐに仕事もみつかり社会復帰成功。

とにかくケンちゃんは明るい。おしゃべりでいつも笑っている。それに気前がいい。パチンコで取ったといっては父には煙草を、母には缶詰を、われわれ子供にはチョコレートやキャラメルを。おまけに月末になると、「少年」「冒険王」「ぼくら」「少年画報」といった月刊誌をどっさり買ってくれる。わたしの自慢の叔父さんなのでした。

あるとき、わたしと二人だけになったとき、そっと1枚の写真を見せてくれた。そこにはみめ麗しき女性が写っていました。
「…………」
『叔父さんの、彼女さ……』
「結婚するの?」
『まあ、そういうことになるんじゃなかろか……』
そういってケンちゃん、ワハハと大笑い。

なんでもその彼女、会社の同僚だとか。ケンちゃん職場でも人気者らしく、就職して1年あまりにして組合の会計を任されるまでに。
悪ガキだった頃しか知らないわたしの母親は大喜び。やっぱり姉弟。
30もとっくに杉林、あとはその彼女と身を固めてくれればと。

それから数ヵ月後の白昼のこと。
わたしが外で友達と遊んでいると、ケンちゃんが大きな風呂敷包みを抱えて家から出てくるではありませんか。夜勤明けで遊びにでも行くのかなと思い「叔父さん」と声をかけると、わたしに気づいたケンちゃん、その表情にいつもの笑顔はなく、見たことのない暗く悲しげな。顔をそむけると何も言わずにスタコラサ。

その晩、家は大騒動。
タンスの中の父親と母親の洋服や着物が根こそぎ蒸発。まるで手品かイルージョン。ただ、子供のものは無事でした。わたしの証言で、犯人即判明。

騒ぎはそれだけでは終わらない。数日後、ケンちゃんの勤めている会社から「一週間無断欠勤だが」という連絡。おまけに、組合の積立金が消えていると。

結局、再び三度、姉連が尻ぬぐい。組合に弁償して、なんとか警察沙汰はまぬがれた。もちろんケンちゃん、煙のように消えちゃった。
「もう何があっても関わらない、あの男とは縁切りだ」と姉たちの怒りはごもっとも。

それから10年。
ケンちゃんが突然帰ってきました。それも自分から。抱えきれぬほどの土産を持って。

ケンちゃん自ら“出頭”ではなく、迷惑をかけた姉たちの前に現れるというのだから、よっぽどの事情が。

ケンちゃん、あれから全国各地を転々とし、数年前から東京郊外のある街に住んでいたそうです。そこでなんと、調理師の免許を取って小学校の給食の賄い人として働いていたのでした。そして知り合ったのがチャコちゃんではなくて、泰子さん。

泰子さん、小学生の男の子と女の子を持つ地主のひとり娘。数年前に旦那さんと死に別れ。やはりパートで給食の賄いに勤めていたとき、ケンちゃんとご対面。
二人は意気投合。ケンちゃん、泰子さんの家へも何度か招かれ、天性のペテン師トーク、いや明るさで、子供たちにはもちろん、お祖父さんにも好かれるという離れ業。

婿養子の話がトントン拍子。
「疑うわけじゃないけど、ご親族の方々と一度……」
と、向こうのお祖父さん。ケンちゃん少しも慌てず、ニコニコ顔で、
「ごもっとも、仲良くしている姉たちがおりますので」と。

そんなわけで、“視界不良の森”からご帰還あそばれたというわけ。
わたしの母や父に土下座して、涙を流して慚愧の謝罪。そういう事情なら、許さないわけにはいかないではないですか。それでも姉のひとりは、
「きっと先方の財産目当てだよ。そのうち大変なことが起きるよ。いつもそうなんだから」
と、ケンちゃんの更正ぶりを信じない。

そんな懸念もどこへやら。無事祝言をあげての新世界。
苗字も変われば気持ちも変わる。仕事一筋。趣味といえばたまのパチンコ。それも夫婦そろって。

そんなこんなでまた10年。子供も成人し、兄は自動車整備士の見習い。妹は早々と結婚。
義理ではあるけど、愛娘を嫁がせ、ひとつ肩の荷をおろしたその年の冬のこと。

草木も眠る丑三つ時。突如わが家に鳴り響く電話のベル。
泰子さんから。「ケンちゃんが死んだ」と。

仕事から帰っていつもの晩酌。そのあと軽くひと風呂と、風呂場へ行ったまま。家族が気づいたら浴槽の中に沈んでいたって。
いい気持ちでつかっているうちに突然の脳溢血。そのままブクブクブク……。
そのまま50数年の人生のTHE ENDとあいなったのでした。

葬儀のあと姉連は話し合いました。
「あんなチャランポランな弟だったけど、さいごは家庭も持てて、いいところに収まって幸せだったんだろうね。人生なんてコツコツやれば晩年いいことが待っているとはかぎらないんだねぇ。チャランポランやっててもうまく帳尻合わせちゃうんだから……」
「そうだよ。謙治はいいときに死んだよ。あれで生きてたら、また何かやらかして蒸発なんてことにもねえ」
一同、同意の大爆笑。姉たちの笑いはケンちゃんのいい供養になった、よね。

「幸せなうちに死んで良かった」と姉たちは言うけれど、わたしはやっぱり長生きしてほしかった。そして、むかしの“悪行”話を肴に盃のやりとりをしてみたかったなぁ。
照れたケンちゃんは、例のワハハという笑いでごまかしたのかもしれませんが。

とにかく今で言う“小(チョイ)ワル”ではなく、犯罪に鈍感な小悪人間だったケンちゃん。ホントに改心したのがどうかは誰にもわかりません。
ただ、あの笑顔と人なつっこさで多くの人に好かれた(姉たちにいわせると、女子供と老人にだけだと)のは事実。そして、コソ泥のように狡っ辛いことはしたけれど、人に危害を加えることはもちろん、他人を罵(ののし)るようなことは一度もない人生でした。

わたしとひとつ屋根の下で暮らしていたのは、ケンちゃん30代の頃。それよりも齢を重ねてしまったわたしだが、今その30数才のケンちゃんを“見る”につけ、「オモロイやっちゃ」と思うのです。まあ、とにかくわたしには“いい叔父さん”でした。


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CAN'T WE BE FRIENDS? [story]

「いらっしゃい。お久しぶりですね」
『夢路』の麗子さん。この店の三軒隣のバーのオーナーママ。2年前に店を開いたこの小路じゃ比較的新顔さん。時々自分の店の開店前にここへやってくるんだけど、ここみ月ばかりは御無沙汰だった。

『暑いわねぇ。気温も上がれば血圧も上がる、上がらないの店の売り上げ。なんちゃって。こう暑いとどっか行きたいよね、涼しいとこへさ』
「ほんとですよね。北海道とか……、いやその、北方領土あたりへ……。つまり北の……」
『いいのよ、気ぃつかわなくったって……。うちの子たちに聞いたのね、もおぅ。もうなんとも思っちゃいないんだから。それより、いつものお願いね』
「はい。ただいま……」

バカだなオレって。まずいこと言っちまった。
実は『夢路』のお喋りスズメたちに聞いたんだけど、麗子さん、み月ほど前に北海道へ行ってるんだ。それが大変な“旅行”だったらしくて、帰って来るや毎日泣いてたって。「生きていてもしょうがない」とか「私の人生は終わった」とか言って……。

麗子さん、30数年前に秋田から東京へ出てきた。そう、話しに聞く集団就職ってやつ。当時新宿にあった製パン工場の女工さん。いつだったか当時の写真見せてもらったけど、すげえ美少女。体格だって今の半分以下。まぁそんなことはいいか。

そこで知り合ったのが、麗子さん曰く“生涯の親友”。同期入社で北海道は札幌生まれ。名前は良江さんっていったかな。寮で同室だったことがキッカケなんだけど、『これほど気の合う他人は生まれて初めて』って麗子さん。良江さんのほうも同じようで、とにかく職場でもプライベートでも、どこへ行くのにも一緒だったって。

そのうち、発展家の麗子さんにボーイフレンドができた。夜遅くまで遊んでいても良江さんは門限ギリギリに帰る。ところが麗子さんは朝帰りが多くなって、おまけに遅刻、欠勤もしばしば。上司の最後通告にも耳を貸さず、「クビだ」「結構よ」でおさらばベイカリー。
それでも20歳前の女の娘、寮を出るときは親友・良江さんと手を取り合っての涙の別れ。

それが麗子さんの“オミズ人生”のスタート。いまだに続いているんだから、やっぱり人間には向き不向きというか、適職ってのがあるんだねぇ。

新宿からすぐに銀座へ移り、3年もしない間にいいパトロンができてそこそこのクラブを構えるまでになったとか。若いのに“素養”があったのか、騙し騙されの虚構の海をみごとに泳ぎきってみせたのはセンスと根性だよね。

それでも麗子さん、偉いのは昔の純な自分も忘れなかったってこと。どんなに忙しくても良江さんとの付き合いは変わらなかったって。

良江さんは9年勤めて工場を辞めた。故郷の札幌へ帰って理髪店を営む2つ年下の男と結婚。麗子さんわがことのように喜んだね。1ケタ違うんじゃないかっていう祝儀を贈ったぐらいだから。

北海道と東京と距離は隔たったけど二人の関係は変わらない。夏は避暑だ、秋は紅葉だ、冬になれば雪まつり、春は花見にと麗子さん、ひまさえあれば良江さんの所へ飛んでった。
良江さんもやがて長男が生まれ、妹が生まれで落ち着いた頃、年に一度は東京見物を兼ねて家族で麗子さんに逢いに来るのが恒例に。

そんなことをくり返しながら十数年。人生いいことばかりありゃしない。夏の盛りがあれば、冬の日暮れだってある。

バブルが弾けてパトロンが火だるま。いくつかあった店をすべて処分しても火炎は収まらない。ここまで来られたのはパトロンのおかげ、とばかりの“義侠心”も相手には伝わらず。着物、ジュエリーすべて処分しても「まだ、あるだろう」の催促。

そんな時だった。しばらく連絡していなかった良江さんから電話があったのは。
用件は考えてもみなかった借金の申し込み。「子供の学資で、どうしても100万円貸して貰えないか」と。
景気が良い頃だったら100万が1000万でも親友のためなら惜しくない。しかし、そのときは自由になる金など1万円もなかった。実情の1割程度を話し、それを言い訳に泣く泣く断った。「わかった。ほか当たってみるわ」と言った親友の声は明るかったけど、麗子さん、気持は重かった。良江さんに済まなかったって。役に立てない自分が不甲斐なかったって。
ひと月後、気になって電話してみると、「ああ、あのこと。なんとかなったからご心配なく。無理言ってごめんね」といつもの調子に安堵した麗子さんだったのだが。

苦境に立ってやっとわかった男の本音。籍を汚さなかったのがせめての救い。パトロンとはキッパリ別れて、自分のキャリアでやっていこうと決心。でも、若い頃のようにはいかない。どれだけ便宜をはかってあげたお客さんでもお金の話しになると知らん顔。「からだを利子がわりにするなら」ってヒヒ爺もいたけど、「もう男はこりごり」「色気で商売はしない」ってキッパリ。
それでもなんとかかんとかやり繰りつけて、やっと開いたのが今の『夢路』。

場末ではあるけれど、他人に頼らず自力で開いた店。これが“商売”なんだってようやくわかった。そこで2年、昔のようにはいかないけれど、ようやく“社員旅行”ができる余裕も。

借金や新規開店のことでしばらく音信が途絶えていた親友。そうだ、社員旅行は北海道にしようと迷わず決心。
今年のゴールデンウィーク、バーテンと女の子数人を引き連れて札幌へ。良江さんには内緒。いきなり行ってビックリさせてやろうという麗子さんのイタズラごころ。

2日目、バーテンや女の子とは別行動。
何度か来たことのある理髪店へ突然訪れた麗子さん。お客の頭をカットしていた良江さんびっくり。そりゃ驚くよね。「どうしたの?」の連発だった。「どうせ旅行するんなら良江の所へ来ようと思って……」と事情を説明するが、何となく親友の歯切れがわるい。それに旦那さんがいないのも気になった。
それでも麗子さん、きっと今忙しいんだなって気を回して、「仕事が終わったら来てよ」って駅前のホテルを教えて退散することに。

そしてその晩、麗子さんは一睡もせずに親友を、彼女からの電話を待ち続けたって。突然の訪問はたしかに迷惑だったかもしれないけれど、都合がわるければ電話一本で済む話。ケイタイもホテルの電話も、リンとも鳴らない。こちらから電話する勇気なんてとうに萎えていた。窓の外が白みはじめる頃、ようやく分かった。良江さんが自分を恨んでいることを。なんで?……。それもすぐに思いついた。数年前、借金を断ったから……。

でも30年の友情が、たった一度借金を断ったことで終わっちゃうの?……。それだけのものだったの?……。そうじゃないよ。自分じゃ気づかなかったけど、良江にとったら成金で、傲慢で……、嫌な女だったんだ。2人で遊んだ食事代も、観劇代も、ちょっとしたタクシー乗るのにも、料金は全部自分が支払った。ある者が出すのはあたりまえと思ってた。でも、いつも出される方にとったら……。そんなことが積もり積もっていたんだ……。
巡り巡った思いがそこへ至ったとき、頭の中がグシャグシャになってわけが分からなくなった。隣の部屋の女の子たちが驚いてやって来るほど大声で泣いてたってさ。

翌日スケジュールをキャンセルして傷心のUターン。女の子たちには予定通り観光をしてといったものの、成り行きを知っている彼女たちだって「それでは」なんて割り切りはできやしない。わるいと思ったけれど、麗子さんわがままを通した。というより身も心もボロボロになって、女の子たちに支えてもらいながら帰ってきた。

それでも東京へ戻って、1日休んだだけで店をあけたそうだ。
それがみ月ほど前の話。店の女の子に言わせると、あれ以来、以前の迫力がなくなっちゃったって。

そんなことを聞いてるもんだから、目の前でお気に入りのアプリコット・カクテルを飲んでいる麗子さん、どことなくやつれ気味で淋しそう。こんな時、なんて声をかければいいものか……。

『マキちゃん、あたしね、これからうんと恋するんだ。いいオトコをとっかえひっかえ捕まえるんだ。春には春の、夏には夏用のオトコがいるんだからねぇ』
「そうですよ、ママさん。男の自分が言うのもなんですけど、男なんて女にとってクスリみたいなもんですから。目薬、風邪薬、胃薬から痛み止め、痒み止め、睡眠薬まで、いろんなクスリを用意しておくんですよ」
『そうよね、からだでもこころでも病気には、やっぱりオトコよね。ハハハハハ……」

そう、家族もいない、親友もなくした麗子さんの心を癒す“特効薬”は男。まだ若いし、その美貌なら、わけなく手に入りますって。大丈夫。

『マキちゃん、たしかにそうなんだけどさぁ、あれもこれもっていうのも面倒くさいし、なんかこう、どんな症状にも効くっていう万能薬みたいなオトコいないものかねぇ?。ねえ、あんた知らない? 知ってたら紹介してよ』
「………………」


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BEYOND THE SUNSET④ [story]


「なんだおめえら、助太刀か?」
2人の足音に気づいた古川が口元を歪めながら言った。祐介を取り囲んでいた10人あまりの不良グループの視線が一斉に淳と博美に向けられた。祐介は淳と目が合うと笑ってみせた。
博美は斜め前で棒立ちになっている淳を見た。その顎が震えている。博美は一歩淳に近づくと、そっと彼の手首を握り、力を入れた。
「ひ、卑怯だよ。た、たった一人を大勢でなんか……」
その握力に押されるように淳が声を発した。
「やるんなら、お、男らしく一対一でやれよ……」
言いながら淳は、心臓が高鳴り、両脇の下を汗が流れるのを感じていた。
「なんだオメエ、一丁前の口きくんじゃねえよ。なら、オメエからやってやろうか?」
古川が凄い形相で淳に言った。
淳の全身は発火したように熱くなった。しかし怯む気持はなかった。それどころか、気持は戦闘態勢に入っていた。なぜなら博美の手の握力を感じ続けていたからだ。

「なるほどな。そりゃそうだ。高沢の言うとおりだ」
突然、不良グループのいちばん後ろに立っていた三橋健吾が大人びた口調で言った。
「古川よぉ、そういうわけだから、後のことは引き受けたからよ、オメエの気の済むようにやってみろや」
「でも、これはみんなの問題だし……、あんな野郎にナメられたんじゃ仲間に対して示しがつかないし……」
「ナメられたのは俺たちじゃねえよ。オメエだろ? それに転校生ひとりを、寄ってたかってヤキ入れたなんて言われたら俺たちの名折れよ。だからオメエひとりでやんなよ。だいじょうぶだよ、ちゃんと見守ってやっからよ」
「……分かったよ! こんな野郎、俺ひとりで十分だ。さあみんな、下がってろ!」
そう言うと、古川は涼しい顔で話の成り行きを聞いていた祐介の前へ歩み出た。

「最後のチャンスだ。謝れよ」
そう言いながら古川は、ズボンのポケットからチェーンを掴みだした。
「何度も言ってるだろ、君に謝る理由はない」
そう言って祐介は身構えた。
数メートル先で成り行きを見守っている淳にとって、初めて見る祐介の険しい表情だった。

古川の右手に持ったチェーンが空気を切り裂き、唸りをあげて祐介に飛ぶ。腕で顔を庇いながら前へ出た祐介の肩にチェーンが触れた。

しかし勝負はあっけなかった。次の瞬間、祐介のタックルに古川は仰向けに倒れた。その上に馬乗りになった祐介はチェーンをもぎ取り後ろへ放り投げた。そして、古川の顔面へ右左右と3回強い拳を叩き込んだのだ。鼻血を吹き出しながら古川は「もういいよ」と小声で言うのが精いっぱいだった。

立ち上がって、ズボンに付いた泥を払う祐介から、険しい表情は消えていた。
「これで、いいんだろ? もうお終いだろ?」
祐介が三橋に言った。
「ああ、お終いだ。オメエと古川の話(ナシ)はな。けど、俺とは済んじゃねえ。いつかゆっくり話しようや」
そういって三橋は顔をほころばせた。

「ありがとう」
淳と博美の方へ歩み寄った祐介が、どちらへともなく言った。
「大丈夫? 肩」
博美が心配そうに言った。
「どうってことないさ」
祐介の左肩のYシャツが破れ、血が滲んでいる。
無事に終わったんだと思ったら、再び足が震えだし、淳は言葉が出てこなかった。

淳と祐介が並んで、その後ろに博美が続いて、3人は夕闇の迫りつつある大源寺の石段を降りていった。西空には、入り日が周囲の空を紅く染めていた。

淳の自転車の後ろに祐介が跨った。淳が自転車を漕ぎ始める。その後ろを博美の自転車が着いていく。

「おい、川上なんで来たんだ?」
淳の背後から小声で祐介が訊ねた。
「なんでって……あいつが教えてくれたんだよ。お前が大源寺へ呼び出されたって……」
「おせっかいなヤツだな」
「お前のことが気になるんだよ、きっと」
「ハハ、ガキのくせに一人前のこと言ってら。女心がわかっちゃないな。川上はキミのことが好きなんだよ、ほんとうは。ハハハハハ……」
後ろから着いてくる博美にまで聞こえるほどの声をたてて祐介が笑った。
〈そうじゃないよ……〉と反論しようと思ったが言葉が出てこない。いままで考えたことさえなかった祐介の言葉が、いつまでも消化されずに淳の心に残った。笑いの余韻を残したまま、祐介が口笛で流行歌を吹いいる。

〈見ろよ〉と言いかけて祐介は言葉をのんだ。激しい炎のような夕空を見ていると、なぜだかわからないが胸が苦しくなり、目頭が熱くなってくるのだった。
博美も夕焼けに心を奪われていた。美しいと思った。そしてなぜか、この日のこと、夕焼け空と淳と祐介のことを、永遠に記憶として刻んでおこうと思った。

そして、淳も。
怖い空だ。まるで自分を焼き尽くしてしまいそうな夕焼けだ。目を細めると、足が竦むような威圧感のなかで、古川たちに立ち向かった10数分前の光景が、夕焼けのスクリーンの上に写し出されていた。そして、自分の手首を握った博美の手のひらの感触が甦ってきた。すると、あの夕焼けの彼方へ突き抜けて行けるような気がしてきて、淳は思わずハンドルを握る手に力をこめた。


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BEYOND THE SUNSET③ [story]

 

「社長さんに会ったら、自分から挨拶しに行くのよ。モグモグ言ってないで、はっきり言うのよ」
「わかってるってば」
母親の言葉を背に受けて、淳は自転車に飛び乗った。
父親と母親がプレス機で加工した自動車の部品を、元請けの野瀬製作所まで届けるのだ。野瀬製作所は、来春淳が働く鉄工場でもある。

坂川沿いを風を切りながら、思い切りペダルを漕ぐ。急かせられる用事ではなかったが、淳は怒りをペダルにぶつけていた。どうすればいいのか、どこへどう足を踏み出せばいいのかわからない、自分に対する苛立ちと怒りをぶつけるように、自転車を加速させていった。

この4カ月あまりで、彼が将来、歩むはずだった軌道を、修正しなくてはならないような事態に立ち至ってしまったのだ。その発端が篠田祐介の出現だった。

淳の家、つまり高沢家は両親と子供3人の家族。両親と、淳とは6つ違いの長男・純一がプレス工場を営んでいる。18歳になる姉の寿恵子は、隣町の文房具店に勤めている。
兄も姉も中学を卒業すると同時に勤労者になった。淳もそのつもりだった。両親や兄のようにプレス工になるのはいやだった。しかし、野瀬製作所では旋盤工の見習として雇ってくれるという。淳にとってキリコを巻き上げながら鉄を削っていく旋盤工は、父や兄のやっている作業よりはるかにカッコいい仕事にみえた。
「お前が一人前になったら、借金して旋盤買って、もっと手広く商売をするんだ」
酔うと口癖のように話す父の言葉は淳にとって、自分が頼りにされているようで、決していやな気分にはならなかった。

そんなわけで、淳は中学を卒業して就職することに何の疑問も抱かなかった。というより、それが自分の進むべき唯一の道だと思っていた。その考えが、祐介と親しくなってから揺らぎはじめたのだ。祐介にすすめられたわけではない。しかし、高校へ、さらには大学へ進学するのだと、さりげなく語る彼の話を、映画雑誌に目を落として聞きながら淳は思った。どうして、自分も祐介のように生きていくことができないのだろうかと。
〈もしかしたら別の道があるのではないか。もっと違う世界、本当は自分が行きたい世界へと続く道があるのではないか〉
と、それまでの自分と自分を取り巻く世界が、急に色褪せて見えるようになったのである。

その道がどこにあるのか、どんな道なのかも分からない。さらに、その道の先にあるはずの自分が行くべき世界というものがどういうものなのかも想像つかない。ただ、それは“きっとある”という拠のない妙な確信だけに支えられていた。そして、それを見つけるためには、定時制でもいいから進学しなくてはいけないのだという、漠然とした思いだけが日に日に現実味を帯びてくるのだった。

しかし、いまさら……。と淳は思う。
もちろん経済的なことを考えれば、働きながら高校へ行くことは可能かもしれない。しかし、すでに就職が決まっている鉄工場で、定時制高校へ通っている工員なんていない。自分だけが許されるはずがない。ならば、通学を認めてくれる仕事場を探すしかない。しかし、それは父親が許すはずがない。世話になっている元請けの工場長に己の息子を旋盤工にしてくださいと、頭を下げて頼んだのだ。いまさら、他の工場へ行きます、なんて言えるわけがない。おまけにあと1週間もすれば中学最後の夏休みに入る。こんな時期になって、進路を変えるなんて教師にとっても迷惑な話ではないか。やっぱり無理なんだ……、でも……。

自転車はスピードに乗ったまま地蔵橋を渡り、風を切って寺町通りへ続く坂道を下っていった。

淳が野瀬製作所から帰り、台所の冷蔵庫からビール瓶に入った麦茶を取りだしたとき、作業場から母親の声がした。
「アツ、冷蔵庫の水捨てといておくれよ。……そういえばさっき博美ちゃんが来たよ。なんだか急ぎの用事みたいで、また来るって帰ってったけど。しばらく逢わなかったけどきれいになったねぇ」

〈なんだろう?〉小学校の頃はともかく、中学になってから彼女が訪ねてくるなんて一度もなかったのに。淳はそう思った。
しばらくすると、作業場兼出入口から「ごめんください」という声が聞こえた。博美だ。
「アツ!」という母親の声を聞きながら、作業場へ行くと入口の開けられたガラス戸の前に水色の半袖ブラウスを着た博美が立っていた。
淳には、さきほどの母親の言葉が甦り、なぜか彼女の姿が眩しく感じた。と同時に自分のランニング姿が少し恥ずかしくなり、頬に熱が走った。

博美は何も言わず、顎を引いて淳に外へ出てくるよう促した。

「なんだよ」
「野瀬さん家まで行ったのよ」
鼻の頭に汗をかいた博美が詰問するように言った。
「ちょっと牛沼で昼寝してたんだ」
「のんきな人ね」
「…………」
「そう、大変なのよ。篠田くんが古川くんたちにまた呼び出されたの。こないだの仕返しよ。大源寺の裏だって。だから早く」
「…………」
「何考えてんのアッちゃん! 友だちじゃないの! アンタしかいないじゃないの! 早く行ってあげないと……」
「……わかったよ。でも、こんな格好でいいかな……?」
「ばかね! 喧嘩とめに行くのに格好もなにもないじゃない! 早くして!」

「ちょっと、友だちのところ行ってくる」
作業場の両親にそう叫ぶと、淳は自転車に飛び乗った。
「あとで知らせるから、おまえは待ってろよ」
「私も行くわ。女がいた方が都合のいい場合だってあるんだから……」
そう言って博美は、止めてあった自分の自転車のスタンドを蹴飛ばした。

寺の参道に続く石段の下に自転車を乗り捨てると、2人は駈け上っていった。
広い境内には数人の参拝者がいるだけで、祐介たちの姿は見えなかった。
「瓢箪池よ、きっと。早く!」
2人は本堂へ向かって駈け出した。
本堂の裏にある林に出ると、その先にある瓢箪池のほとりに数人の人影が見えた。


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BEYOND THE SUNSET② [story]

 

「てめえ、人を馬鹿にするのもたいがいにしろよ! 俺様をだれだと思ってんだよぉ」
その声にふり返ると、祐介の席の前で、同級生の古川次郎がいまにも掴みかからんばかりの形相で仁王立ちしていた。
「……勝手なこと言うな。僕はそんな約束をした覚えはないぜ」
不敵な笑みを浮かべて祐介が応えた。そのときタイミングよく始業のベルが鳴り響いた。

祐介が転向してきて3カ月が過ぎたが、彼は相変わらずクラスメートとうち解けようとはしなかった。そんななかでしつこく声をかけていたのが古川だった。古川は蓮田中学の不良グループの仲間で、その威を借りてクラスではわが物顔に振る舞っていた。体格のいい祐介を仲間に引き入れようと、盛んに誘っているのだが、成果はあがらないようで、ついに爆発したらしい。

ほかの同級生たちにとっても祐介は、張り合いがなく、あまりにも協調性がないので疎ましい存在になっていた。「根が暗いよ」「嫌なヤツ」「気取ってらあ」などの陰口は、淳の耳にも聞こえてきた。

淳は困った。他のクラスメートとは今までどおりうまくやっていきたい。また、時間が経つほどに、祐介とのつき合いは面白く有意義なものに思えてくる。そんなわけなので、教室では、他の友だち同様、祐介には声をかけない。しかし、彼の家へ行ったときはまるで親友のように振る舞う。そんな二重人格のような接し方は自分でも嫌だったが、当の祐介は、そんなことまるで意に介さないようだった。それどころか、淳の気持ちを察しているかのように、教室では彼からも声をかけてはこなかった。

淳以外で、祐介に対して非難の目を向けない人間が教室内にもうひとりいた。

クラス一の才女、川上博美の家は、プレス工場をやっている淳の家から数軒離れた中華料理店だった。したがって、幼なじみであり、淳のことはもちろん、彼の家庭事情まで熟知しているという、淳にとっては大の苦手な同級生なのだ。
博美は決して祐介の悪口を言わない。また、友だちの陰口にも耳をかさない。それは、彼女が祐介のことを、どこか畏れているからではないか。祐介の良さを感覚的に感じ取っているからではないのだろうか。と、淳は思っている。

あるとき、淳はつい口をすべらせて博美にこう言ったことがある。
「篠田ってさ、ああ見えても、けっこう大人なんだぜ。ジャズ喫茶なんかも行ったことがあるようだし、いろいろなこと知ってるみたいでさ……」
「ずいぶん詳しいのね。じゃあ、今度彼に言っておいて。知っているくせに知らないふりをするのは、知ったかぶりするより最低な行為だわって」
「…………」

昼休み、淳は部室でマンガを読んでいた。すると野球部仲間の菊間が勢いよくドアを開けて入ってきた。
「おいおい、ついに篠田がやられるぞ。古川たちが体育館の裏に呼び出したってよぉ。三橋君も来るっていうから、たいへんだぁ~。これから見に行かなくちゃ。お前も来いよ」

大変なことになった。と淳は思った。三橋健吾は蓮田中学の不良グループのリーダーで、当然のごとく番を張っている。古川の注進により、生意気な転校生に焼きを入れてやろうというのだろう。

淳が体育館裏へ駆けつけると、祐介が10人余りの不良グループに取り囲まれていた。少し離れてその周りを野次馬と化した数十人の学生が取り巻いている。

「俺たちにタテつくとどうなるか、教えてやろうじゃねえか」
不良グループから一歩前へ出た古川が、余裕の笑みを浮かべて言った。
「いまここで、土下座して謝ればゆるしてやらないこともないぜ……」
「…………」

野次馬の中で突っ立ったまま淳は、からだが熱くなるのを感じていた。
〈なんとかしなきゃ……、なんとかするんだ……、なんとか……〉

「なによ! たった一人にそんな大勢でもって。それが男のやること? ふだん偉そうに男の代表選手みたいなこと言っておきながら、情けないったらありゃしない!」

川上博美だった。
その言葉が言い終わらないうちに校庭の方から数人の教師が走ってきた。
「何をしているんだ、お前たちは! 戻れ、戻れ!」
白昼劇は教師の怒鳴り声で幕が下ろされた。三橋や古川たち不良グループも、見物していた学生たちも、ゾロゾロと教室の方へ戻っていった。

祐介は感謝の気持ちを口元にあらわしながら博美を見つめていた。その視線に気づくと博美は、勢いよく踵を返して背を向けた。そして、呆然と立ち尽くす淳と視線が合うと、くちを強く結び、ひと睨みして通りすぎていった。淳は心臓の中に手を突っ込まれ、掻き回されたような気がした。

そんなことがあって、淳はもう祐介の家へにへ行けないと思っていた。ところが、それから数日経った日曜日、祐介が何ごともなかったかのように淳の家へ、「映画を観にいかないか」と誘いに来たのだった。
それからまた淳と祐介の交流ははじまった。はじめは負い目があった淳だったが、以前と変わらない祐介の態度は、それを徐々に忘れさせてくれた。


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BEYOND THE SUNSET① [story]

 

どうやらこのクラスに転校生が来るらしい。
みじかい春休みが終わり、登校した教室の中がいつもに増して騒がしいのは、久々の再会に高揚するクラスメートたちの近況報告のせいばかりではなかった。とりわけ女子生徒が高揚ぎみなのは、転校生が男子らしいという噂があったからだった。

教室の前の戸が開けられ、担任・室岡に続いて転校生が入ってくると、どよめきが起こった。それは室岡に付き添った転校生が、驚くほどの長身だったからだ。実際の身長は180センチぐらいだったのだが、とりわけ小柄な室岡と並ぶと大巨人に見えたのである。
「今日からわが3年9組のクラスメートになる篠田祐介くんだ。3年になってみんなそれぞれ忙しくなるだろうが、彼に不自由がないように力になってあげてほしい……」
担任の話のあいだ、前髪を斜めに垂らした転校生は、まるで他人事のように後ろの壁を眺めていた。

「あいつだ……」
その転校生を見て、高沢淳は口の中でつぶやいた。

3日前、淳は映画館にいた。
裏通りにある3本立て50円のオデオン座。淳の月に一度の秘密の楽園。おかげでひと月の小遣いの4分の一は消えてしまう。
それでも闇の空間に輝く銀幕は、両親や学校や友達は教えてくれない、いろいろなことを教えてくれのだった。たとえばそれは正義であったり、勇気であったり、友情であったり……。さらには女であったり、性であったり、罪であったり……。
とにかく淳には、まだよく分からないが、おそらくこれから自分が直面しなくてはならない様々な問題が、目の前のスクリーンの中で起こっているように思えるのだった。
来年の春には中学を卒業し、父親のツテで大源寺近くの鉄工場に就職する予定だった。そうなったら、週に一度は映画を観よう。それがいまの淳の最も至近な“夢”だった。

「ネックレス気に入りました?」
「ええ、とっても。でも頂いていいのかしら?」
スクリーンでちょっとアプレな若い女性と中年の品の良い女性が会話している。
椅子に凭れて映画を見ていた淳は、背後に気配を感じた。
「あのおばさん、死ぬんだぜ。自殺するんだ見ててみな……」
誰かが淳の耳元でそうささやいた。
ふり返った淳の目に、スクリーンの光を受けた男の顔が浮かんで見えた。淳は嫌なものを見たように、すぐに向き直った。その男は学生帽を被っていた。でも、あの大人びた顔は自分と同じ中学生ではない。きっと高校生だ。淳はそう思った。それにしても学生帽とは大胆なヤツだ。淳の通う中学校では、学生が父兄を伴わないで映画館に入ることを禁じていた。そのため彼が映画館へ足を運ぶときは決まって、大人びた服装をして、学生と見破られないようにしていた。その日も兄のハンチングと、少し大きめの焦げ茶のジャンパーを羽織っていた。もちろん、他人にはどこから見ても少年なのだが、本人はうまく変装しているつもりなのである。

「キミは、蓮田中学の生徒かい?」
背後の学生は、その後もしばしば淳に話しかけてきた。それは映画のストーリーだったり、淳のことだったり。警戒心に充たされた淳は、生返事をするのが精いっぱいだった。
〈ひとりで映画を見に来るなんて不良にきまってる……〉
自分のことは棚に上げて、そう確信した淳は、その映画が終わると、あとの2本をあきらめて、席を立った。
映画館を出ると裏通りを小走りで、本通りへと向かった。しばらくしてふり返って見たが、例の学生の姿は見えなかった。

新学年が始まり、教室の雰囲気は、1、2年の時と一変した。進学する生徒と就職する生徒がはっきり分けられた。9組の50数名の生徒のうち、就職組は20名あまりだった。進学組には特別授業があり、普段の授業でも教師は就職組に質問や宿題を課すことがなくなった。
転校生の祐介は進学組だったのだが、新学期から2カ月が経っても、クラスメートと馴染もうとしなかった。教室の一番後ろの席に座り、いつも視線を落としていた。あとで分かったことだが、どうやら彼は授業中、小説を読んでいたのだ。たまに教師に指名されると決まって「わかりません」と明瞭り言って着席してしまう。その振る舞いがあまりにも毅然としているので、教師たちはそれ以上言葉をかけることを躊躇ってしまうのである。

それでも何人かの好奇心旺盛な同級生が祐介に声をかけてみた。しかし、彼は薄く笑うだけで応じようとはしなかった。
淳は、映画館のこともあり、祐介と係わり合いになるのを避けていた。自分の“悦楽の時間”をクラスメートには知られたくなかった。祐介の口からその話題が出るのをおそれたのだ。

そんなある日、野球部の練習を終えた淳が校門を出てくると、鞄を肩に担いだ祐介が立っていた。
「よお、ごくろうさん。毎日飽きずによくやるなあ……」
「やあ……」
「練習見てたけど、なかなかうまいじゃん」
自分を待っていたのだとは思わなかった淳は、そのまま行き過ぎようとしたが、祐介は話しかけながらごく自然に歩調を合わせてきた。
「こないだ、全部観ないで帰っちゃったなあ。僕のせいか?」
「いや、そうじゃない。用事があったから……」
「そうか……。どうだい? これから僕の家へ来ないか? 最新の映画雑誌もあるしさ。あのとき観そこなった『ヴェラクルス』の載ってる雑誌もあるぜ。イカスよな、ゲーリー・クーパー。知ってるかい? やつの早撃ち」
「0.3秒だっていうんだろ?」
「知ってるじゃん、そうさ」
「でも『左ききの拳銃』のポール・ニューマンはもっと早いって。まだ観てないけど……」
「よく知ってるじゃん。僕は観たよ、こないだ」
「えっ、ほんとに観たの? そりゃ、すごいや。で、やっぱり速かった?……」

結局その日、淳は祐介の家へ行った。そして、それから放課後や休日、しばしば彼の家へ遊びに行くようになった。淳にとって、家でも学校でも映画の話ができるのは祐介だけだった。そして、彼の部屋には古いものから最新号まで映画雑誌が並べられていた。それを読んでいるだけでも時間はあっという間に過ぎていくのだった。

もうひとつ、淳が祐介の家をたびたび訪問するようになった理由は、彼の妹だった。小学6年生で文江といった。お下げ髪で、濃い眉毛に切れ長の眼が強い意志を表していた。淳とは祐介の部屋に茶菓子をもって来るときに顔を合わせるぐらいだったが、初対面のときから淳には気になる存在だった。
挨拶以外の言葉など一度も交わしたことはないが、淳は文江のいつも何か怒っているような顔を思い浮かべると、なぜか胸の中に空気を挿入されたような気分になるのだった。


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THE OLD RUGGED CROSS [story]

 

ユタカの上半身は汗がとめどなく流れていた。山毛欅や楢の喬木に被われた細い道は、陽はあたらなかったが、風がなく汗を蒸発させてはくれなかった。ユタカはときどき立ち止まり、後ろからよろけながら着いてくるナオコの手を取り、山道の段差の高い場所へ引き揚げてやった。

山道を登りはじめて30分ほど経つと、平坦な場所に出た。朽ち果てそうな木製のテーブルと飾りっ気のない長椅子が忘れられたように置かれている。そこから14、5メートル先の、再び山道のはじまるあたりに大きな樫の木があり、地面から3メートルあまりのところから突き出た枝に真赤な樽がぶら下がっていた。樽は真ん中のタガの下に太いロープを巻き付け、天蓋を少し傾げた格好で釣る下がってる。

ユタカはそれを下から見上げていた。ベンチの上に底の高い靴のまま蹲ってナオコがユタカを見ていた。その目つきは、次ぎにユタカが何をするのか見逃すまいという決意があふれていた。

宇田川町の古ぼけたビルから、赤い樽を背負ったユタカが出てきた。手には逞しいスコップが握られている。彼はセンター街を通り抜け、スクランブル交差点を渡り、やがて駅構内へと消えていった。

あれからずいぶん歩いた。いろいろな景色を通り抜けてきた。それなのに強い陽射しは相変わらずで、肩に食い込んだ背中の赤い樽の重さは、あの山中で樫の木から解放してあげたときといくらも変わっていなかった。
川の音が聞こえる。潮の匂いが漂う。埃っぽい道の先に橋が見えた。石の橋だ。長い橋だ。この橋を渡りきれば、目的の海に着くはずである。

橋を越えると別世界だった。つい今さっきまで真っ青だった空は色彩を失っていた。綻びのように点在していた白い雲は急激に巨大化し、鉛色に変わっていた。小さな丘陵の上に出ると激しい風に襲われた。汗と埃で額に貼り付いていた髪が、一気に梳かされ、針金のように後方へ流れていった。身体がその風に吹き飛ばされないのは、赤い樽が自分を抱きしめているからだ、とユタカは思った。

空の色を映した海は声をあげて怒り狂っていた。その高波はいまにも丘の下まで押し寄せてくるようだった。ユタカは何度も砂に足をとられながら丘を下った。
彼はスコップを投げ出し、背中から赤い樽を下ろして砂浜に座った。白いシャツを脱いだ。シャツは新聞紙のように宙を舞って丘の向こうへ消えていった。陽に灼けたユタカの背中。両肩には太いみみず腫れがタトゥーのように浮かんでいた。

穴は小一時間で掘れた。ユタカは赤い樽をロープごとその穴の中へ下ろした。傾かないように水平になるように、と細心の注意をはらいながら樽を穴の底へ沈めた。そして、山のように積まれた黒い砂をスコップで勢いよく穴の中へ放り投げ続けた。赤い樽に砂がかぶり、その姿は徐々に見えなくなっていった。樽が完全に砂の下に消えても、ユタカはまるで止まらないダンサーのようにスコップを使い続けた。
そして、小さな砂饅頭ができると、海辺へ行き、流木を拾ってきて、その上から突き刺した。

ナオコが宇田川町にあるユタカの仕事場兼住まいを訪ねたのは、無関心な秋が行きすぎ、北風一番が吹いた火曜日のことだった。
彼の仕事場は、モルタルがはげ落ちた3階建てアパートの2階。外付けの錆びた階段を上り、合鍵でドアをあけた。

6畳一間の部屋は竜巻にあったかのように散乱していた。旧式のパソコンのモニターが床に倒れ、モップが柄から突き刺さっていた。床には雑誌や仕事の資料がぶちまけられている。その真ん中あたりにユタカが俯せに倒れていた。両手首が腰のあたりで縛られている。
ナオコはユタカの足元に蹲がみこみ、声を出さず、大きな口をあけて泣いた。涙は頬を滑り、口の中へ入り、あふれると顎を伝って、ユタカの踵の破れた靴下の上に落ちた。

眼が覚めると部屋の中は暗かった。ナオコは立ちあがり、入り口の壁にあるスイッチを押した。部屋は発火したように一瞬で明るくなった。床にはユタカが倒れている。彼女は部屋を片づけることにした。散逸している雑誌や紙を集め、机や棚の上に乗せた。破壊されたパソコンやコピー機を元あった場所へ置き直した。何かの音にナオコは耳をそばだてた。レゲエミュージックだった。隣の部屋からだった。彼女は音楽に反応しながら部屋の中を片づけ続けた。

すべてを片づけ終え、床には仰向けになったユタカだけが残った。
ナオコはいつもユタカが座っていた椅子に腰掛け、ユタカの背中を凝視めた。レゲエ音楽はもう聞こえなかった。

しばらくすると彼女の視線は机の前の壁に貼られた一枚の写真に引き寄せられた。冬雲りの海の写真。空も海も砂浜も階調の微妙に異なるグレー一色。そんななかで波頭だけが白く光っている。ナオコにはその海に見覚えがあるような気がした。ユタカと行ったのではない。誰かと行ったのではない。遠い昔、たとえば、曾祖母がまだ若かった時代、その海岸を歩いた記憶があった。

晴れ渡った空に潮風が気持ちいい。ナオコはコートにくるまり、いつもの厚底の靴を履いて、硝子の破片のように煌めく海を眺めながら砂浜を歩いていた。、わらべ歌のような波音を聞いていた。歩きながら、肩から提げたバッグから真っ赤なリンゴを取りだした。
リンゴは酸味が利いていて美味しかった。でも、ふた齧りするともう飽きてしまい、ナオコは彼方の丘陵めがけて、それを投げつけた。
落下したリンゴはコロコロ転がって静止した。そのはるか先には建てられてからもう何十年も経たような古い墓標が立っていた。

湿った砂浜にはナオコの靴跡がプリントされている。それは見知らぬ町へと続いている。
一瞬の風が吹いた。と思ったのは錯覚で、それは墓標が倒れた音。
墓標の抜けた砂が、まるで蟻地獄のように地中へと吸い込まれていく。そして、そこから人間の指先が、手が突き出てきた。さらに腕が、そして坊主頭が。
やがて砂の中から真っ裸の少年が姿を現した。少年は寒そうに自分の身体を両腕で抱きしめ、ヨロヨロと砂の上を歩いていった。そして砂の上に俯せで倒れ込んだ。

少年はゆっくりと瞼を開いた。目の前には2カ所を抉られた真っ赤なリンゴが置かれていた。そして、少年はその先に青い空と潮騒があることを初めて知った。


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MACK THE KNIFE [story]

 

「ありがとうございました。毎度……」
0時10分前。お連れさんが帰り、これでカウンターに最後の客がひとりだけ。オレが卒業したW中学の2コ上の先輩竹久さん。
今日は季節はずれの颱風のような一日だった。そして3時間ほど前、雨と風に押されたように突然ドアが開き、竹久先輩が現れた。もう10年以上会っていなかったけど、一目でわかった。実は、今日あたり現れるんじゃないかって妙な予感があった。今日はめずらしく立て込んだので、話しっぱなしというわけにはいかなかった。こっちも気をつかってたびたび話しかけてみたけど、先輩、ただ不機嫌そうに頷いてばかり。

竹久さんは、数多(あまた)いるコワイ先輩の中でもピカ一。キレたら上級生も逆らえないという狂犬。なにがコワイって平気でナイフを使うこと。中学2年のときにナイフで他校生に傷を負わせ、しばらく鑑別所へ送りになったこともあった。もちろん本人を前にしては言えなかったけれど、陰のあだ名が“差し魔”。
それでも面倒見はいい。とくに後輩に対しては。どこかの高校でW中学出身者が苛められたというウワサを聞くと、すぐに助けにすっ飛んでいったものだ。そして竹久先輩は、絶対にその見返りを要求することはなかった。しかし、恩を着せられた人間は、そのことで完全に舎弟化してしまう。その頃から、みんなは先輩に従いながらも、どこか及び腰のところがあった。このまま一緒にいたら、いつか取り返しの着かない事に巻き込まれるのではないか。誰もがそんな危険なニオイを先輩から感じとっていたのだ。

後輩達の危惧は、すぐに的中した。高校を中退した翌年、竹久先輩は対立する暴走族の頭を刺し殺してしまった。それも、苛められた後輩たちを思っての報復行為だった。先輩の行為に拍手喝采する仲間もいたが、ほとんどは「やりすぎだよ」と思っていた。
もちろん竹久先輩は逮捕され、懲役に服すことになった。正直、仲間うちでも「ヤレヤレ」と胸をなで下ろしていたヤツが多かったんじゃないかな。
懲役は不定期だったが、竹久先輩は出所までに5年近くかかった。地元の仲間たちがソワソワしだしたのは、先輩の出所が間近というウワサが流れたころだった。そのウワサにはもうひとつオマケがくっついていた。先輩が服役中、面会に訪れた友達はほんの数えるくらいしかいなかった。それで、先輩は「あんなに良くしてやったのに」と怒っているというのだ。思い当たるフシのある人間は一様に「ただじゃすまない」と思った。とりわけ、竹久先輩の“留守中”に地元で暴れていた奴らは戦々恐々だった。なかには、早くも地元を離れ、どこかへ雲隠れする者まであらわれたって。

そしていよいよ先輩が出所する日がやってきた。

それこそみんな、「狼が来たぞ!」って心境だったんじゃないかな。ところがまったくの杞憂、拍子抜けってやつ。先輩、昼間は親戚の段ボール工場で働き、夜になると家を一歩も出ない。昔の仲間と連絡をとろうともしないんだから不思議。5年の刑務所生活で精神を病んでしまったと、聞いたふうな話をするヤツもいた。そのうちかつての“舎弟”が御機嫌伺いに行き、遊びに誘ってみたが、「そのうちな」というばかりで、乗ってこない。
そんな様子がひと月、ふた月。みんなは半ばホッとして半分はいまだ心配。眠れる獅子だの休火山だのと、警戒をゆるめない。
そのままで過ぎていけば、それはそれでひとつの伝説になったのだろうが、安っぽいテレビドラマだってそんなエンディングはない。

半年経ったある日、竹久先輩が突然消えた。仕事をやめ、家をおん出て行方知れず。蒸発ってやつ。みんな内心喜んだね。あからさまにガッツポーズするヤツさえいた。そして一様に「頼む。もう二度とこの町に戻ってこないでくれ」って願ったものだ。

それからさらに5年。ちょうど今日のように、雨まじりの強い風が吹いた日のことだった。竹久先輩が町へ舞い戻ったというウワサが流れた。
まずはかつての“舎弟”で、いまは胡散臭い金融業をやってる長山さんの所へ突然現れた。そのときの姿が伸びほうだいの髪と髭、そして、どうやら鳶をやっているらしくヨレヨレのニッカボッカ姿。ネックレスからはじまって、ピアス、ブレスレット、指輪までキンキラキンの長山さんとは好対照。
2人は長山さん行きつけの割烹へ。先輩ははじめっから口数が少なく、ほとんど喋るのは長山さんばかり。おまけに、それとなくいまの仕事や生活ぶりを訊ねても、言葉を濁すだけ。そのうち長山さんも話すことが無くなり、店内の喧噪の中で2人のテーブルだけが沈黙の島。5分もそんな状態が続いて、耐えられなくなった長山さんが顔をあげたら、竹久先輩の視線とぶつかった。そのときのこと、あとで長山さん「ぞっとしたね」って言ってた。長山さん、仔細了解って感じで、そのとき財布に入っていた50数万円を先輩の前に差し出した。そしたら先輩、その札束をポケットに捻り込むやいなや、立ち上がって、何も言わずに風のように消えちゃったって。

しばらくして今度は須藤っていう、やはりかつての“舎弟”のところへ現れ、20万円を貰って帰ったという話が。そのあとも何人かのところを回り、その頃仲間うちでは竹久先輩のことを“集金魔”と呼ぶようになり恐れていた。
そして、先週とうとうオレの同級生だった臼井の所までやってきた。臼井もオレも、そんなに竹久先輩と親密だったわけではないし、恩を売られた覚えもなかったので、正直、びっくりした。ヘソクリの10万円を献上したという臼井は、電話で「こんどはオマエの番だぞ」って嫌なこと言いやがった。ヤツがこの店のことを先輩に教えたんだ……。あの野郎……。

「すいません。いつもはヒマなんですけど。今日に限って……。あ、グラス空いてますね。気がつきませんで……なんか作りましょうか……」
この眼だ。睨むのでもなく、虚ろでもなく、強いて言えば作り物、ガラス玉のような。ニラメッコしても絶対にこちらが勝てない眼。
「先週、臼井のとこへ行ったんですってね」
『…………』
「ごらんのとおり、わたしはこんな薄汚いバーの雇われバーテンでして。懐具合だっていまの季節同様さみしいもんで。みんなのように気前のいいことはできませんが……」
『…………』
「ただ、酒だったらいつだってご馳走することはできます。いつでも歓迎しますから飲みに来てください」
『…………』
正直、オレは全身汗びっしょりだった。もし何か注文されても、まともにシェーカーを振れたかどうだか。
しばらく黙っていた竹久先輩が突然椅子から降り、
『じゃあ、そのうちな……』
と言ってドアを開け、出て行った。カウンターには無造作に1万円札が1枚置かれていた。開け放たれたドアの外では、じき止むだろう雨がだらしなく降っていた。

その日以来、竹久先輩は、ふたたび町から姿を消した。そして、なぜかオレは仲間うちで英雄になってしまった。恐怖の“刺し魔”“集金王”を説得して町から追い出したってことらしい。もちろんそんなことをするつもりも、したつもりもないのだが。
しかし、みんなはそれで安心したわけではなかった。先輩が「そのうちな」って言っていたように、いつかまた、たとえば春一番が吹く頃、この町へ舞い戻ってきて、みんなの前にあの冷たい眼をして現れるんじゃないかって。

それにしてもいい度胸だったなって? とんでもないあの時、カウンターの下にはなけなしの10万円が入った封筒を置いておいたんだ。それを渡すヒマもなく、先輩は消えてしまった。なんていうのかな、〈こんなしみったれ野郎から巻き上げてもしょうがない〉とでも思ったのか、オレに関係なく突然町を出たくなったのか。そこんところは、何遍考えてもよくわからない。というか、後で考えてみれば、もしかして竹久先輩、はじめて長山さんのところに現れた時から、金なんか貰うつもりはなかったんじゃないか、って気もするんだけど……。


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SAILOR ON THE DEEP BLUE SEA② [story]


4歳のとき父親を病気で亡くした真澄忍は、信州で祖母と母親に育てられた。真澄家は小さな畑で野菜を栽培する女ばかり3人の家族だったが、忍は何かを妬むこともなく、何かに僻むこともなく母と祖母の愛に包まれて成長していった。彼女には微かだが父親との思い出が映像として残っている。それは、信州の家の庭にあったブランコに乗っている、忍を抱いた父親の姿だった。父は笑っていた。そして、低く歌っていた。幼い忍は眩しい陽の光と、“父親の匂い”を感じていた。それは、整髪料のような匂いだった。後年、忍は母から聞いた父が使っていた整髪料を買ってみたが、それはあの匂いと似ているが少し異なっているように思った。多分“父親の匂い”は、その整髪料に父の体臭が混ざった匂いなのだろう。
忍は高校を卒業すると、希望どおり東京へ出て製パン工場で働くようになった。

東京へ来て2年目、彼女は寮の近くに住む柳田慶一と知り合った。彼女は慶一との出逢いに感動していた。彼の考えていることが不思議と理解できるのだ。そして、自分の考えていることを、彼は分かっているようなのだ。それは相手の喜びや悲しみを共有できるということだった。そんな他人と出会ったのは彼女の20年の人生で初めてだった。それに、慶一が亡くなった父親と同じ整髪料をつけていたのも、何か親近感が感じられた。
慶一は貨物船の船乗りで、国内航路ではあったが1年のうち半分は海の上だった。それでもふたりは、将来の結婚を約束するまでになった。慶一に初めて抱かれた晩、忍は感動にうち震え涙を流した。それは愛する男と結ばれた喜びと同時に、自分を抱きしめる彼からあの“父親の匂い”に似た匂いを感じたからだった。

そして彼女が21歳になったとき、来春に結婚を約束していた冬、不幸が竜巻のようにやってきた。慶一をはじめ乗務員17名を乗せた貨物船が、太平洋の鷗崎沖数十キロの地点で冬の嵐に巻き込まれたのだ。低気圧のスピードが予想以上に速かったことがその悲劇を生んだ。貨物船は乗務員もろとも波間に消えてしまった。
うそのように晴れ渡ったその翌日から捜索は行われたが、生存者はなかった。もはや心身とも慶一と同化していた忍は、半狂乱になった。その後、1年間に3度にわたって自殺を図ったことからも、その心の痛手の深さが推し量れる。
忍の悲しみとはよそに、遺体の収容、遺留品の確保、遭難船の引き揚げなど、海難事故の処理は着々とすすめられていった。しかし、どうしても1人だけ遺体がみつからなかった。それが慶一だった。慶一に関しては衣類や靴あるいは装飾品といった遺品すらもみつからなかった。よくあることだが、そんなケースではまことしやかな生存説が流れる。漂流して何処かの島や国にたどり着き、記憶を無くしたままそこで生活している、というような。

結局、自殺を防ぐために、彼女は入院するしかなかった。
心の病が少しでも癒え、社会で人並みの生活ができるようになるまでに3年かかった。しかし、彼女は入院生活での治療により奇跡的な回復をみせたのである。そのきっかけはこんなことだった。
あるとき担当の若い精神医が彼女に言った。
「真澄さん、もしかしたら彼は生きているのかもしれないよ。そして、いつかキミのところへ戻ってくるかもしれないんだよ。そのとき、キミがこの世にいなかったら、彼はどれほど悲しむだろうか。おそらくその悲しみはキミが受けたものと同じだと思うよ。だから、そのためにも、キミは元気で彼を迎えてやらなければならないんだ。わかるだろ?」

はたして、その精神医が名医だったのか、ヤブ医者だったのかはともかく、少なくとも彼女はその言葉を信じ、心のうちにしっかりと刻みつけたのである。

退院した彼女は自分から水商売の世界へ入った。ただひたすらお金を貯めたかった。唯一の楽しみは月に一度、かもめ町へ行くことだった。そして、岬の上に座り、慶一が消えた太平洋の沖を何時間でも凝視めているのだった。すると、それほど遠くない将来、彼が還ってくるような、そんな幸せな気持ちになれるのだった。

気がつくと慶一が海に消えてから25年が過ぎていた。その間忍は一貫して水商売の世界を生きてきた。銀座や麻布に店を出すほどの商才も発揮した。しかし、祖母が、母が相次いで亡くなるという不幸にも見舞われた。その直後、彼女は白い小犬を飼いはじめ、〈クリス〉という名をつけた。
そして昭和が平成に変わって間もなく、彼女は店を売り、その世界から身を引いた。

彼女はかねてからの計画どおり、慶一が没した海の見渡せる鷗崎に土地を買い、小さな家を建てて、クリスと“ふたり”で移り住んだ。庭には小さな畑を作った。母と祖母と3人で暮らしていた信州のように。キュウリやトマトを育てながら、土の匂いをかぎながら、彼女は母や祖母と話をした。もうひとつ、これもかねてからの計画どおり、海の見渡せる庭に大きなブランコを据えた。
この先何十年間、暮らしていくのに必要なお金は銀行に預けてあった。あとはひたすら慶一を待てばいいのだ。忍はそう思っていた。
天気の良い日はこのブランコに座って、目前に広がる太平洋を眺める。青い空は慶一の偽りのない心。陽の光に輝く海は慶一との熱い思い出。白い雲は慶一の優しくあたたかい腕だった。彼女は海を見ているだけで、幸せであり希望が持てるのだった。ときとして微睡むことがあったが、そんなときには決まって慶一の幻覚や幻聴を覚えるのだった。

…………
私が忍さんと親しくなってから、ちょうど1年が過ぎた頃、彼女は身体の不調を訴えるようになった。仕事のついでに訪ねると、いつものように笑顔で迎えてくれるのだが、どこか起きているのが辛そうな様子だった。
何度かすすめて、ようやく医者に診てもらう気になったとき、病魔はかなり進行していた。肝臓に悪性の腫瘍ができていたのだ。もちろん本人には言わない。病院は入院をすすめたが、彼女は頑なに拒んだ。ここへ住んだいきさつを知っている私は、彼女の気持ちを尊重してあげるべきだと思った。
それから、彼女の家へ中年のヘルパーさんが住み込み、世話をするようになった。私も、仕事の折りにはもちろん、休日でも一日一回は顔をだすようにした。そのたびに彼女は、
「まだ死ねないわ。アタシが死んだら、あの人の帰るところがなくなるから……」
と気丈に笑うのだった。
それでも彼女の命は確実に削られていった。往診に来た医者も「もう、ひと月は無理だろう……」と私に告げた。

それから数日後、私は郵便物を持って忍さんの家を訪ねた。
彼女はすでに食事も受けつず、点滴で命をつないでいた。意識も混濁しているようだったが、制服姿の私を認めると顔をほころばせた。
私は、ひざまずき、彼女の耳もとでこう言った。
「忍さん、ようやく慶一さんから手紙が来たよ」
そのとき彼女の瞳が大きく見開かれた。そして、まるで十代の女性のように輝いた。彼女の唇がすこし動いた。耳を寄せると、「読んで……」と言って涙をこぼした。

『しーちゃん、ずいぶん長い間待たせてしまったね。ごめんよ。もっと早く連絡しなくちゃいけなかったね……。でも、よく生きていてくれたよ。ありがとう。僕はいつも、海の上からキミのことを見ていたよ。キミもブランコを揺らしながら僕のことを見ていてくれたね。でも、もう何も心配いらないんだ。しーちゃんはもうじき僕のいるところへ来てくれるんだからね。もう僕のことを待たなくていいんだよ。ほら、僕のいるところが見えるだろ。キミの親友の〈クリス〉もここにいるんだぜ、見えるだろう……』

忍さんが亡くなったあと、土地と財産は遺言どおり、すべてかもめ町に寄付された。そしてこれも彼女の希望どおり、取り壊された家や畑の跡には小さな公園が造られた。いや、財産すべてというのは正確ではない。実は驚くことに、身寄りのない彼女は、短い交流だったにもかかわらず、私や最後の世話をしたヘルパーさんにも遺産を残してくれていたのだ。
忍さんが亡くなってからしばらくすると、私はまたよその土地が恋しくなってきた。彼女の死がきっかけになったのかもしれない。とにかく、それから3カ月後、私はT社を辞め、列車に乗り、昔のように行く先知らずの旅に出たのだった。

そうそう、これは言っておかなければならない。もちろん私は遺産目当てに忍さんと親しくなったのではない。だからといって遺産の受取りを拒否することは彼女の遺志に反することになる。そこで、受け取った金額すべてを使って、その公園に銅像を造ることにした。それがいま公園の片隅にある、ブランコに乗った少女が海を眺めている、あの銅像である。


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