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●下宿 [a landscape]

下宿.jpg 

♪可愛いあの娘に声かけられて
 頬を染めてたうぶな奴
 語り明かせば下宿屋の
 おばさん酒持ってやってくる
 ああゝ 恋よ良き友よ
 俺はいまでもこの街に住んで
 女房子供に手を焼きながらも
 生きている
(「我が良き友よ」詞・曲:吉田拓郎、歌:かまやつひろし、昭和49年)

友達ができるのは、小中学校ではほとんど地元の人間。
高校になるといくらか地域が広がり、東京ならば他区の人間と親しくなり、学校外でも行き来する仲になると、当然行動範囲も広がる。

これが大学や会社ともなるとさらに広がる。
とりわけ東京、大阪など大都会では、それこそ北は北海道、南は沖縄の人間と親しくなることもある。彼らとの交流の中でときとして小さなカルチャーショックがあったり。

大学に入りたての頃、真っ先に親しくなったのが山形の男。
あるとき、他の学友も含め4、5人で彼の所で酒をのもうということになった。
そのときの彼の誘い文句が、
「なら、俺の下宿でやろうか」

「下宿?」。
わたしの頭の中には賄い付きの部屋に間借りしている彼の姿が。てっきりアパート暮らしだと思っていたので意外だった。
他人の家ならあまり羽目も外せないな、と思いつつ行ってみると、なんのことはない普通のアパート。

そのときは「こいつ、アパートのことを下宿なんて言ってるぜ」
と思ったものですが、彼の言葉づかいは間違いではなく、「下宿」とは長期間提供された宿泊施設のことで、必ずしも賄い付きとは限らず、アパートもまた下宿なのだ。
わたしが知らなかっただけの話。

ムッシュかまやつがヒットさせた「我が良き友よ」に出てくる「下宿」は、おばさんが登場するように、わたしのイメージにあった賄い付きの間借りのこと。

カントリー、ロックと洋楽系のムッシュがセピア色の歌をうたうというミスマッチがおもしろかった。

つくったのはご存じ吉田拓郎で、「旅の宿」もそうだが、“いにしえの日本”に対する懐古趣味があったのか、あるいは“現代”へのアンチテーゼとして悦にいっていたのか。
というか、あの頃のフォークソングじたいが、その存在意義として反社会ならぬ“反現代”のようなフンイキをどこかに保持していたような気がします。

それにしても当時でも、戦後30年も経とうというのにバンカラとは。

たとえばわたしの中高校時代、すでにバンカラは死滅していました。
バンカラはいわゆる旧制中学の産物で、学制改革が行われた戦後の昭和22年に引導をわたされることに。

それからしばらくは“残党”もいたのでしょうが、男女共学が止めをさすことに。
腰に手拭ぶらさげて、下駄を鳴らすヤツなんかモテるわけないもの。

それでも、たとえば北杜夫の小説「どくとるマンボウ青春記」や鈴木清順の映画「けんかえれじい」(今ならフルヴァージョンのYOU-TUBEが見られますよ)で垣間見た♪嗚呼玉杯に花うけて の世界には少なからず憧れがあったものです。

吉田拓郎はわたしより5つほど年上(生誕の月日は同じなんですが。どうでもいいこと)ですが、おそらくバンカラ現役世代ではないはず。
しかし地方では昭和30年代半ばぐらいまで生息していた可能性もあるので、東京の人間よりはバンカラを身近に感じていたのかもしれませんが。

……これでは「我が良き友よ」一曲で終わってしまう。
軌道修正。

で、その「我が良き友よ」の「下宿」が前述したように「賄い付き間借り」なのに対し、「下宿」イコール「アパート」なのが「神田川」(南こうせつとかぐや姫)

♪三畳一間の 小さな下宿

これはおばさんのいる「貸間」ではありませんね。安アパートですね。

それにしても三畳とは。
そうなると、おそらく彼と彼女は同棲していたのではないんじゃないかな。二人で銭湯通いをしているけど、彼女が“通い妻”だったんでしょう。

前回出ましたが、「赤ちょうちん」ではアパートでしたが、この「神田川」では下宿。
作詞はどちらも喜多條忠。このことからも当時、同じ集合住宅にふたつの言い方があったことがわかります。

この「神田川」がつくられたのが昭和48年。「我が良き友よ」の1年前です。

それよりさらに1年古い「下宿」物語がまたまた登場、三上寛「五所川原の日々」

♪80円の平凡パンチ 買って下宿で読んだ

喫茶「カルネドール」、「ツルツネ書店」、レストラン「富士」……。懐かしい。

「下宿」していたのは高校生。
当時、地方で自宅から学校まで距離のある高校生の下宿はめずらしくなかった。で、そのほとんどは賄い付き。
切ない歌でした。とくに三上寛がうたうとリアルだよね。

最後に、さらに古い「下宿」ストーリーを。
♪暗い下宿の 四畳半 「あれから十年たったかな」(春日八郎)

昭和34年のヒット曲です。

春日八郎は福島県出身で、デビューは昭和27年の「赤いランプの終列車」。これがいきなりヒットするというラッキーボーイでしたが、年齢は28歳とこの世界では遅咲き。所属レコード会社(キング)と契約したのが24年で、その間の3年、レコーディングもできない低迷時代もあったとか。

しかし本物が一度ブレイクすると止まらない。
28年には「街の灯台」がヒット、そして翌29年は歌舞伎「与話情浮名横櫛」をモチーフにした「お富さん」が歌謡史上最大のヒットに(当時)。
キングレコードでは三橋美智也と二枚看板でその人気を競ったもの。

以後、
30年 「別れの一本杉」
31年 「別れの波止場」
32年 「あんときゃどしゃ降り」
33年 「別れの燈台」「居酒屋」
34年 「山の吊橋」「足摺岬」
36年 「長良川旅情」
38年 「長崎の女」

とコンスタントにヒット曲を連打。昭和30年代の歌謡曲黄金時代の一翼を担ったシンガーのひとりでした。

「あれから十年たったかな」は昭和34年、下積み時代を含めて歌手生活10年目の記念曲だったそうです。
いまやこの歌から半世紀以上。途方もない時間です。
「春日」でグーグル検索しても、オードリーのはるか下まで辿らないと出てこない。
「お富さん」を知る人もマイノリティ。あゝ「泣けた 泣けた」。

春日八郎が艱難辛苦に耐えた「下宿」。
これもまたアパートではなく、間借りだったような気がします。

昭和の20年代から30年代にかけては、学生に限らずサラリーマンでも間借りが多かった。今のように外食屋さんがふんだんにある時代ではなかったし、“男子厨房に入らず”の時代でしたから。

だから当時の小説や映画にはよくそんなサラリーマンが出てきました。
で、その下宿屋の娘さんと懇ろになるなんてストーリーがあったり。
場合によっちゃ娘さんじゃなくてそこの奥方だったり。

そんなストーリーで昭和40年代から50年代に花咲いたのが日活ロマンポルノは「未亡人下宿」シリーズ。愛染恭子さんとかね、エロエロおりました。
で、こちらの下宿では「賄い」はもちろん“デザート”までついてたって話。


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コメント 2

toty

下宿の話からははずれてしまうのですが
たまたま今朝、テレビにかまやつひろしがでてきて

「我が良き友よ」のB面の
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を歌ってました。
なかなか味があって、よかったです。

三橋美智也、春日八郎の歌は、どういうわけだか
歌えます。途方もない時間がたっているというのに(笑)
by toty (2011-05-02 00:23) 

MOMO

「ゴロワーズ―」、いいでね。

ライブで聴いた方が伝わる歌ですね。

しかしムッシュ元気ですね、もう70歳は過ぎているはずですけど。
やっぱり歌うたっていると若くいられるのかもしれませんね。

三橋、春日、ちょっと遅れて三波、村田。
いま思うと不思議な時代ですよね。むかし、××映画によくあった「パートカラー」のような。
by MOMO (2011-05-04 00:58) 

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