その名は●きよし① [the name]
♪天(そら)が泣いたら 雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても なんにも出ない
意地が涙を・・・泣いて 泣いてたまるかよ
通せんぼ
(「泣いてたまるか」詞:良池まもる、曲・木下忠司、歌:渥美清、昭和41年)
「その名は」では最近外国名ばかり。たまには日本名もやらなくては。
そういうわけで今回は「きよし」さんを。
「きよし」もかつては人気があって、日本男児の代表的な名前でした。
「きよし」にも「清」、「潔」、「喜好」、「清史」などなど漢字表記はさまざまですが、好まれているのは「清」と「潔」で、なかでも前者の人気がダントツ。
とりわけ大正は「清」の時代で、某生保会社の調査では9年から15年(昭和元年)まで連続トップ。ちなみに2位は「三郎」と「茂」。
昭和に入ってもつねにベスト10に名を連ね、5年にはついにトップに。
翌6年も1位で、以下、8、11、12年と人気ナンバーワンに君臨。
さすがに戦争をはさんで戦後は人気降落だろうと思うとトンデモナイ。相変わらずの人気で22年にはみたび1位に。
以後、昭和31年にベスト10から消えるまで根強い人気を誇った名前なのでした。
経済成長とともに「清」の人気もなくなっていったわけで、そのあたりから日本人の「清き心」も失われていったのかも、なんて。
では「日本の清」といったら?
昭和40年代なかば、世間を震撼させた連続強姦殺人鬼?
そんなのもいましたが。
裸で日本中を歩き回った絵描きさん?
そういう人もいましたね。でも違う。
同じ全国行脚をした人だけれど裸じゃない。中折れに雪駄だったけど。
そうです映画「男はつらいよ」で車寅次郎を演じた渥美清。
いい役者だったなぁ。
亡くなってからもう14年も経つのですね。早いもんだ。
「男はつらいよ」は第1作から10作ぐらいまでは封切館で観た記憶があります。
いちばん印象に残っているのはやっぱり第1作、第2作。マドンナでいえば光本幸子、佐藤オリエ。
吉永小百合の1作目もよかったですが、そのあとあたりから、さすがにマンネリズムに観てる方がつらくなって。
主題歌「男はつらいよ」は歌手・渥美清の代表作で作詞作曲は星野哲郎、山本直純のコンビ。たしかによく聴くとメロディーラインが演歌・歌謡曲の作曲家とはいささか違いますね。
映画「男はつらいよ」は、毎回タイムリーな流行歌がでてくるんですね。
「恋の季節」とか、「舟唄」とか、「人生いろいろ」などというヒット曲が。
それは劇中さりげなくラジオから流れてきたり、寅さんや共演者が口ずさむというかたちで。
何作目からそうなったのかはわかりませんが、第1作にはなかった。
でも第1作でもヒット曲ではないけれど、やっぱり流行歌を寅さんとマドンナのお嬢さんが口ずさんでいましたっけ。
それが北島三郎の「喧嘩辰」。
♪殺したいほど 惚れてはいたが
指もふれずに 別れたぜ
寅さんがふさぎこんでいるお嬢さんをオートレースに連れて行って、その後上野あたりで飲んで、夜遅く帝釈天参道の商店街を上機嫌で帰ってくるというシーン。
寅さんが♪ころしたいほーど とうたいます。
そして、帝釈天に隣接するお嬢さんの家に着き、お嬢さんは耳門(くぐり)から中へ入っていく。
寅さん、お嬢さんのハンドバッグを持ってあげていたのに気づき声をかける。
すると耳門からお嬢さんの白い手がでてきて、寅さんがバッグを渡す。
お嬢さん、バッグを受け取ってもまだ手をだしている。寅さんは気づいてその手をそっと握る。
そしてお嬢さんの手がすっと抜かれ、♪ころしたいほど ほれてはいるが ってハナ歌が中から聞えてくる。
こんなシーンじゃなかったでしょうか。
名シーンですね。寅さんの行く末を暗示してましたし。
たしか、その名シーンの前に、上野の飲み屋のラジオからオリジナルが流れていましたね。
この歌はレコードを買うほど好きだったのですが、残念ながらYOU-TUBEにはありませんでした。(ありましたので。風前のともしびかもしれませんが)
渥美清は映画「喜劇列車シリーズ」から観てました。こちらは真面目な車掌の役で大器の片りんをうかがわせる名演でした。
また、彼の評価をたかめた「拝啓天皇陛下様」は、リアルタイムではありませんでしたが、これまた渥美清の役者としての資質の高さを感じさせられた名作でした。
それと主演ではないですが、加藤泰の「遊侠一匹」で時次郎を慕う三下・朝吉役も印象に残っています。
あとはやっぱりテレビですね。
どちらかというとテレビドラマでその名を知られるようになったコメディアンですからね。
なかでも印象に残っているのが毎週違った設定で主演した人情ドラマ「泣いてたまるか」。
このドラマを見るようになったのは、当時中学の体育の先生(柔道有段者でほとんどの生徒が恐れていた)。
保健体育か何かの授業の時その「泣いてたまるか」にえらく感激したようで、いろいろストーリーを熱く語ったあと「オレはこれからラッパの善さんを毎回見ることに決めたんだ」とリキんでみせました。
「ラッパの善さん」は第1作の話で、2作目以降はまた別の話になるのですが、先生、ずっと善さんが出ると思っていたらしい。
といかく「あのコワモテ先生が、子供みたいにムキになって強調するのだから、よっぽど面白いのだろう」と思って次の週見たところ、なるほど納得でした。
以後、違う意味でそのコワモテ先生に対し一目置くようになったりね。
その「泣いてたまるか」の主題歌が上にのせた歌詞。
渥美清自身がうたっています。
作曲はこのコラムではおなじみの木下忠司。
「破れ太鼓」(中島孝、安田祥子)「喜びも悲しみも幾歳月」「惜春鳥」(若山彰)、「二人の世界」(あおい輝彦)、「記念樹」(小坂一也)、「天と地の間に」(サウンドトラック)、「あゝ人生に涙あり」(里見浩太郎ほか)と並べてみればそのあふれんばかりの才能がわかります。
で、今回は作詞家に注目。
良池まもるはあまり聞かない名前。
それでもほかに笹みどりの「下町育ち」なんてヒット曲があります。
じつは「良池まもる」はペンネームで、本名は関沢新一。
京都出身の人で、日本映画のファンなら「ああ」と思うはず。
シナリオライターでとりわけ「モスラ」やそれ以降の「ゴジラ」シリーズで健筆をふるっています。
スタートは戦前からという作詞家のほうが早く、関沢新一といえば昭和の作詞家としても十指に入ろうかというヒットメーカー。
最初のヒットは昭和29年の「狸十三夜」(コロムビア・ローズ)や「恋の風ぐるま」(高千穂ひづる)などですが、これはチョロっと売れた程度。
そこそこ一般人の耳に届くようになったのは33年の「ダイナマイトが150屯」(小林旭)あたりから。
どうやら当初は最盛をほこった日本映画の主題歌や挿入歌の仕事が多かったようで、前述の「モスラ」(ザ・ピーナッツ)のわけのわからない詞も彼によるもの(共作)。
昭和30年代も後半になると歌の世界は青春歌謡が全盛。
これまた映画とのコラボでさらにレコードの売れ行き枚数を積み重ねるという寸法。
関沢さんも大忙し。
とりわけ舟木一夫に提供した作品が多く、38年には「学園広場」、39年には「夢のハワイで盆踊り」、41年には「高原のお嬢さん」などが。
そのあたりからテレビドラマの主題歌も書くようになり、「泣いてたまるか」のほかでは、やはり舟木一夫の「銭形平次」が。
それ以外では
「柔」美空ひばり
「皆の衆」「姿三四郎」村田英雄
「涙の連絡船」「アラ見てたのね」(都はるみ)
「馬鹿は死ななきゃなおらない」(畠山みどり)
「大勝負」(水前寺清子)
「歩」(北島三郎)
とビッグヒットが目白押し。
また写真家としても知られ、元祖「鉄ちゃん」でもあり、自ら撮った蒸気機関車の写真集を出版するなど多才な人でしたが、平成4年72歳で亡くなりました。
なお、ペンネームの「良池まもる」は「良池護」で反対から読むと「護池良」で「ゴジラ」になるそうです。
また、なぜ同じ作詞家で二つの名前を使い分けたのかというと、気分あるいは作風によって使い分けるという人もいますが、彼の場合はレコード会社の都合ではないかと思います。
当時のレコード会社は作詞・作曲家も歌手も専属制で、彼は元来コロムビアレコードの所属でした。その後、昭和45年ごろクラウンに移るのですが、その前に詞を提供した渥美清も笹みどりもクラウンの所属で、「関沢新一」では道理が通らなかったのでしょう。
1話完結のつもりの「きよし」が渥美清だけで終わってしまいました。
仕方なく残りは後篇ということで次回に。
そうそう、これだけは付け加えておきます。
「男はつらいよ」は世紀のマンネリ映画だとして10作ぐらいで映画館通いをやめたといいましたが、その後、ビデオやDVDでほとんど観ています。
また、今でも時々思い出したように古いビデオを引っぱりだしては観ています(とくに第1作、2作はね)。
こういう映画はほかにはありませんから、「マンネリズムも極めればフェヴァリットになる」ということなのかもしれません。
渥美清といえば、
夢で逢いましょうの場面が目に浮かびます。
ああいう味の出せる役者は、少ないですね。
きよしの続き、楽しみに待っています。
by toty (2010-10-24 00:56)
そうでしたね、スタートはNHKでしたよね。
「夢で逢いましょう」はちょっと大人のバラエティでしたね。それに放送時間も遅かったようで、ほとんど見た記憶がありません。
「若い季節」っていうのは見ていましたが、渥美清はそれにも出ていたかもしれませんね。
とにかくあの風貌はずっと以前からインパクトがありました。
by MOMO (2010-10-27 22:04)