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夏歌③青葉 [noisy life]

アラモ②1960.jpg

Wo...wo...
A time to be reaping
A time to be sowing
The green leaves of summer
Are calling me home
Twas so good to be young then
In the season of plenty
When the catfish were jumping
As high as the sky
…………
([THE GREEN LEAVES OF SUMMER] words by P.F.Webster, music by D.Tiomkin, vocals by THE BROTHERS FOUR, 1960)

これは映画「遥かなるアラモ」(1960年)の主題歌。

1836年、テキサス州のアラモ砦での独立義勇軍とメキシコ軍との戦いという史実をもとにつくられた映画。
義勇軍を率いたのが西部開拓の英雄、ジム・ボウイ。そしてさらにアメリカン・ヒーローのデビー・クロケットまでが参戦したが、13日間に及ぶ戦いは数にまさるメキシコ軍の勝利に終わり、ジム、デビーとも壮絶な最期をとげる。

映画ではデビー・クロケット中心に描かれ、その主役には監督も兼ねたジョン・ウェインが扮していた。ジム・ボウイには“くせ者”リチャード・ウィドマーク

この3時間に迫ろうという大作は、アメリカでは興行的に失敗したようだが、日本ではそこそこヒット。
西部劇にはめずらしい悲劇的な最期が日本人の感性にあっていたのかも。

この映画の主題歌が同名の「遥かなるアラモ」The Green Leaves of Summer 。
ブラザース・フォアThe Brothers Four がうたいヒットしました。

実は、この映画が公開される直前にブラザース・フォアは「グリーンフィールズ」Greenfields をヒットさせていて、この「遥かなるアラモ」のヒットで日本のあるヒットパレードでは、2曲がベスト10の1位2位という快挙をなしとげます。
それが1960年、昭和35年の11月のこと。

その頃わたしも小学生ながら洋楽に目覚め、ブラフォーのレコードを買いました。
当時よくあった33回転の4曲入り(コンパクト盤なんていってた)。

目当ては「グリーンフィールズ」で、あとの3曲は「遥かなるアラモ」、「七つの水仙」Seven  Daffodils、「朝日のあたる家」The Houses of The Rising Sun? だったかな(記憶があいまい)。

ブラザース・フォアはワシントン大学の学友4人組で、この「グリーンフィールズ」は60年にビルボードで2位になった曲。

アメリカではその少し前の1958年にキングストン・トリオThe Kingston Trioの「トム・ドゥーリー」Tom Dooley がビルボードの1位になり、そのあたりからトラディショナルソングやP.D.を現代風にアレンジしたモダンフォーク・ムーヴメントが起きはじめます。
           
その動きは日本にも波及するのですが、その一波がブラフォーの「グリーンフィールズ」でした。つまり日本のフォークブームの魁はキングストン・トリオではなく、ブラザース・フォアだったことになります。

そして、第二波がハイウェイメンHighway Men の「漕げよマイケル」Michael Row The Boat Ashore 、第三波がPPM「パフ」Puff で、以下キングストン・トリオ「花はどこへ行った」Where Have All The Flowers Gone、再びブラザース・フォアの「500マイル」500 Miles、そしてジョーン・バエズJoan Baezの「ドナ・ドナ」Donna Donnaへと続いていきます。

実は「遥かなるアラモ」の映画は封切りから数年後に“3番館”で観たのであってリアルタイムではありませんでした。
当時、洋楽には目覚めましたが、洋画はまだまだでした。

そしてそれからほぼ3年後、ブラフォーがまた映画の主題歌をうたってヒットパレードの第1位に。
もちろんわたしはシングル盤を買いました。そして、どうしてもその映画が観たくなり、親にねだって何とかロードショーで観ることができました。

それが「北京の55日」55 Days at Peking

これも実際の歴史上の事件を基につくられた映画。
清朝末期の1900年に排外的な秘密組織が連合国と戦った「義和団の乱」がその事件です。

その連合国には日本も加わっていて、映画はもちろん連合国側から描かれていました。

まぁ欲に目がくらんだ欧米諸国と日本が中国という他人の家へ土足で侵入し、抵抗分子を力づくでねじ伏せるというのが実際なのですが、当時のわたしは主演のチャールトン・ヘストンの勇壮さに拍手、エヴァ・ガードナーの美しさにウットリってなもんで、単純無知な中学生を絵にかいたようなものでした。

しかし、いずれにしてもこの映画を観たことで、それまでの東映時代劇を卒業し、洋画を観倒す(大袈裟!)ようになるのですから、何がキッカケになるかわからない。

しかし洋画初心者としては、役者にしか目がいきません。
監督はもちろん、その音楽をつくったのは誰かなんてまったく興味なし。

ですから、その「北京の55日」と「遥かなるアラモ」の音楽を担当したのが同じ人間だなんてまるで気づかない。
それを知ったのは大分あとになってから。

それが映画音楽の巨匠、ディミトリー・ティオムキンDimitri Tiomkin。

ティオムキンはその名前からも想像がつくようにロシア人。
1895年生まれといいますからロシア革命のときは二十歳そこそこ。
ドイツ経由でアメリカへ渡ったのが30歳すぎで、社会主義革命を嫌って祖国を捨てたことが想像できます。

「遥かなるアラモ」もロシアのウクライナ地方に伝わる民謡をベースにして作ったとも。

もともとはピアニスト志望でしたが、バレリーナだった妻の助言で映画音楽の道へ。
戦前から映画音楽を作りはじめ、1937年には「失われた地平線」でアカデミー賞にノミネートされるほどに。

しかし本当に才能が開花するのは戦後で、1952年の「真昼の決闘」、その2年後の「紅の翼」で2度のオスカー受賞者になっています。

戦後といえば、先だって「ジェニー」のところで少しふれたジェニファー・ジョーンズの「ジェニーの肖像」もティオムキンの音楽。

最後の作品となった1969年の「チャイコフスキー」まで160本あまりの映画音楽をつくったといわれます。オスカー受賞作以外のヒット作品のいくつかを並べてみますと、

「スミス都へ行く」(1939)、「ジャイアンツ 」(1956)、「友情ある説得」(1956)、「OK牧場の決斗」(1957)、「老人と海」(1958)、「許されざる者」(1959)、「リオ・ブラボー」(1959)、「アラモ」(1960)、「ナバロンの要塞」(1961)、「北京の55日」(1963)、「ローマ帝国の滅亡」(1964)……

ほかに、テレビ番組の「ローハイド」の音楽も担当していて、かの有名な主題歌も彼の作品。

ふりかえってみれば「グリーンフィールズ」や「遥かなるアラモ」がヒットしていた頃は、まだビートルズThe Beatlesの「抱きしめたい」I Want to Hold Your HandもベンチャーズThe Venturesの「ダイヤモンド・ヘッド」Diamond Headも日本には上陸していませんでした。(その直後怒涛のごとく2つの波はやってきましたが)

そしてピート・シーガーPeet Seager やボブ・ディランBob Dylanをはじめとするプロテスト・ソングがの季節がはじまり、日本でも岡林信康高石友也らの新しいフォークの風が西から吹いてくるのは、もう少し先のことでした。

これで今年のナツメロ、いや夏歌も無事終わりました。ヤレヤレ。


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MOMO

寅さん、nice!をありがとうございます。
by MOMO (2010-07-21 23:09) 

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