SSブログ

喫茶店●うたごえ [a landscape]

うたごえ喫茶.jpg

♪いつかある日 山で死んだら
 旧い山の友よ 伝えてくれ
 母親には 安らかだったと
 男らしく死んだと 父親には
 
伝えてくれ いとしい妻に
 俺が帰らなくても 生きて行けと
 
息子たちに 俺の踏みあとが
 ふるさとの岩山に 残っていると
(「いつかある日」詞:深田久弥、曲:西前四郎)

いやぁ、前回は予定外といいますか、脱線してしまいました。
昭和30年代の喫茶店といえば「深夜」ではなく、やっぱり「うたごえ」ですね。

「うたごえ喫茶」というのは、かんたんにいうとコーラスを楽しむ喫茶店ということ。
店のなかには演奏者と歌唱指導をするリーダーがいる。
「出発の歌」上條恒彦「青葉城恋唄」さとう宗幸がそうしたリーダーだったのはよく知られた話。

演奏は大きな店ならちょっとしたバンドが入り、ちいさな所はアコーディオンだけだったり。
客はそこでコーヒーやアルコール(安いハイボールが人気だったそう)を頼み、特製の歌集(1部10円)を買い、その頁をめくりながらうたうわけです。

コーヒー、ハイボールがともに50円(昭和32年)というから、当時の物価から考えて特別高いということもない。ただ、昭和34、5年の最盛期のころは大混雑で入れ替え制をとった店もあったとか。

そもそも「うたごえ喫茶」の第1号は昭和31年にできた新宿の「灯(ともしび)」だといわれています。ただ昭和20年代後半に、池袋の「どん底」で左翼系の芸術家や学生の客がうたいはじめたという話もあり、こちらは「うたごえ酒場」と呼ばれています。

「灯」はもともとロシア民謡のレコードを流すロシア料理店で、「どん底」のスタイルをヒントに“うたえる喫茶店”をスタートさせたのかもしれません。

「灯」にせよ「どん底」にせよ“うたえる飲食店”は突如発生したわけではありません。

戦後焼け跡の臭気いまださめやらぬ昭和23年、合法化された日本共産党はその文化芸術活動の一環として青共中央合唱団を組織します
これが「うたごえ運動」のスタートでした。
その実質的指導者が声楽家で戦前からの筋金入りの活動家(プロレタリア音楽同盟委員長)の関鑑子(あきこ)。

やがてその功績を讃えられ、ソビエト連邦から「レーニン平和賞」を受賞する彼女については、つづけると長くなりますし、いずれふれることもあるでしょうから今回はふれずにおきます。

とにかく関鑑子主導の「うたごえ運動」は職場へ、学校へと浸透していきます。
そこには党による共産主義の啓蒙という最大の趣旨があったのでしょうが、そうした思想を超えて「うたごえ運動」は広がっていったように思えます。

敗戦によってすべて奪われ、満腹感を得られないという肉体的な辛さと同時に、先が見えない、明日どうなるかわからないという精神的な不安をいだいていた人々は、せめてうたいたいという思いがあったんじゃないでしょうか。

カラオケなんてない時代、歌といえば学校の音楽の時間にしかうたったことがない、という人がほとんどだったのではないでしょうか。それが、職場にコーラス部ができて指導者のもと昼休みや仕事のあと、みんなでうたえる。参加した人はその楽しさ充実感を胸いっぱいに味わったはずです。

共産党の拡大には限界がありましたが、コーラスの普及は学校、職場、地域、同好サークルと現在に続いています。ま、それはどうでも。

つまり、そうした「うたごえ運動」という地盤の上に「うたごえ喫茶」が発生したということです。

今と比べてはるかに楽しみが少なかった時代、若者全部とはいいませんが、その一部が「うたごえ喫茶」に熱狂したことは十分想像できます。

ある雑誌には当時「うたごえ喫茶」に通いつめていた若者の話として次のようなことが書かれていました。
「仕事はだいたい夜の八時、九時まで残業。それから行っても間に合わない。だから週に一日だけ五時であがらせてもらい、夕食も食べずに電車に飛び乗って新宿へ行くんです。毎週それが待ち遠しいくらい楽しみでした」

従業員5、6人の零細企業に勤める彼の職場にはコーラス部もない。それでもいつか行った「うたごえ喫茶」の魅力にとりつかれてしまった若者。やっぱり彼もうたうことに飢えていたんでしょうね。これも青春です。

そんな「うたごえ喫茶」が出てくる小説に曾野綾子「ぜったい多数」(昭和40年刊)があります。
雑誌に連載された長編で、昭和39年の東京オリンピックを間近に控えた東京が舞台。

大学を卒業して就活に失敗したヒロインが偶然のいたずらで歌声喫茶につとめることに。そしてそこの仲間や、大学時代の旧友との交流のなかで自分のすすむ道をみつけ、やがてひとりで旅立っていくというストーリー。
恋愛はもちろん、喧嘩、妊娠、別れ、友人の死と青春ドラマにありがちな事件に加えて、時代を反映するような労働争議まであったりして。

同年松竹で映画化もされました。監督は中村登。ヒロインは桑野みゆき。ほかに北村和夫、田村正和、伊藤孝雄などの出演とのこと。映画は観ていませんので。

まぁ小説のほうは雑誌で毎月少しずつ読む分にはいいかもしれませんが、一挙に読むにはいささか疲れるというかダレる小説ではあります。

しかし昭和の“風俗ウォッチャー”(ウソだろ)としては、昭和30年代末の、そして歌声喫茶の雰囲気が伝わってきてGOODでした。それはともかく。

そんな「うたごえ喫茶」も昭和40年代に入ると退潮の兆しが見えはじめます。
その原因はいろいろあるでしょうが、テレビの普及も大きかった。
テレビは映画をはじめそれまでの“娯楽”を根こそぎなぎ倒して、娯楽の王様に成り上がったモンスターです。

先ほどの青年の場合も、工場の食堂にテレビが置かれるようになって、仕事のあと仲間と歌番組やクイズ番組、あるいは野球のナイターを見ることが楽しくなったのでしょう。それでもはや「うたごえ喫茶」に通わなくなって……、なんてことも想像できます。

では最後に、「うたごえ喫茶」で実際にどんな歌がうたわれていたのか。
「うたごえ運動」の流れで革命歌、労働歌、平和の歌があり、童謡、抒情歌、外国の民謡があり、民謡や流行歌と幅広く。そしてなぜか山の歌も。いずれの歌も健全、健康というのが条件のようです。

それではということで、前述の小説「ぜったい多数」のなかでうたわれていた、あるいは会話のなかに出てきた歌のいくつか(YOU-TUBEにあるもの)をピックアップしてみました。

かつてかの場所に身を置いた方はその想い出に、わたしを含め未体験の人たちはその雰囲気にひたってください。
なお、「うたごえ喫茶」の現在は、常設の場所はききませんが、週に1日あるいは不定期で開催している店はあるようです。以前コメントをくれた「カチューシャ」さんもそのひとつです。

「いつかある日」
山岳の名著「日本百名山」の著者である登山家の深田久弥がフランスの登山家ロジェ・デュブラの原詩を訳したもの。
作曲の西前四郎も登山家で、かの植村直己が行方不明となったアラスカ・マッキンリーの初登頂に参加しています。

「手のひらを太陽に」
今や子どもの歌としてうたわれているエヴァグリーンソング。作曲はいずみたく、作詞は「アンパンマン」のやなせたかし

「月の沙漠」
明治44年作の童謡。哀調を帯びた旋律とエキゾチックな歌詞は大人にも人気。カヴァー?する歌手も男女を問わず多く、森繁節がなかなかいい。

「ロシア民謡」
“うたごえ喫茶”の定番。共産党主導の“うたごえ運動”の影響とはいえ、思想を離れ当時の日本人の心情にフィット。いまはどうなの?

「山男の歌」
ダークダックスで流行しました。「いつかある日」もそうですが、「うたごえ喫茶」には山の歌が多い。アメリカ民謡に詞をつけた「雪山讃歌」もよく聴きました。原曲は軍歌だそうです。

「原爆を許すまじ」
もちろん広島・長崎に投下された原爆反対のうた。作曲の木下航二は夜間中学の先生で「しあわせの歌」(知らないか…)も作っている。初めて聴いたのはP・シーガーで。

「北上夜曲」
“うたごえ喫茶”発信のヒット曲のひとつ。当時は作者不詳でしたが、のちに戦前に東北の学生二人によって作られた歌と判明。歌謡曲としてもヒット

「幸せなら手をたたこう」
場を盛り上げるには格好の歌。「足鳴らそう」「肩叩こう」など歌詞を替えて延々と。昭和39年、坂本九の歌でヒット。元はスペイン民謡だとか。

「こんにちは赤ちゃん」
赤ちゃん讃歌。信じられないが童謡ではない。それも合唱とは……。そんな時代でした。なんたってレコード大賞受賞曲なのですから。六八コンビ梓みちよの歌唱。

「川は流れる」
これは「ぜったい多数」には出てきませんが、よく歌われたという歌。昭和36年のヒット曲。うたったのはウチナーシンガーの魁、仲宗根美樹。泣かせる詞はキングのヒットメーカー横井弘


 


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。