喫茶店●深夜 [a landscape]
♪夏の陽を 浴びて
潮風に揺れる 花々よ
草蔭に結び 熟れてゆく 赤い実よ
夢は遠く 白い帆に乗せて
消えてゆく 消えてゆく
水の 彼方に
(「狂った果実」詞:石原慎太郎、曲:佐藤勝、歌:石原裕次郎、昭和31年)
喫茶店も商売。お客さんを呼ぶためにはいろいろなことを考えます。
つまりお茶を提供するだけではなく、プラスαの付加価値を考えるのです。
大昔のカフェの時代からオーソドックスにあったのがレコードつまりクラシックや流行歌を流すこと。いまならだれでもいつでもどこでも音楽が聴けるので、どうということはないですが、蓄音器だってめずらしい時代は十分それで商売が成り立ったということ。
戦後、心身ともに国家権力の束縛から解放された庶民は嗜好も多様になり、そうした人々を取り込もうという商売も様々なアイデアで対応します。喫茶店だって。
では昭和30年に爆発的に開店した喫茶店といえば。
タイトルでバレバレ。そのとおり「深夜喫茶」です。
ではその「深夜喫茶」とは何ぞや。
その名のとおり、深夜まであるいは明け方まで営業する喫茶店のこと。
しかしこれが大変な社会問題に。
まず青少年とりわけ未成年が入りびたるということ。
これだけでも問題ですが、それに加えて店内で堂々といかがわしい(?)行為が行われていたこと。つまり喫茶店がラブホテル化(当時は“温泉マーク”とか“連れ込み(旅館)”なんていってました)してしまったこと。
ボックス席を背凭れの高いペア席に改造し、周囲から遮断するようにカーテンを引いての個室化とやりたいほうだい。
東京ではさすがに翌年都条例で十八歳未満の出入りを禁止しますが、さして効果なし。
東京オリンピックを間近に控えた39年の夏、国も「こんな光景を外国人には見せられない。国辱ものだ」とばかり、営業時間を午後11時までとする風営法を成立させ、ようやく歯止めがかかることに。
しかし、昭和40年代に入っても、カーテンは消えたものの背凭れの高いシートはそのままで“同伴喫茶”なんて名称で恋人たちの“逢瀬の場”は存在しつづけました。彼らがもっと豊かになってラブホに行けるようになるまで。
また、恋人のいない男をターゲットにしたのが、古くは「美人喫茶」、40年代に入ると「水着喫茶」さらには「ノーパン喫茶」と、「どこまで行ったら気がすむんや」とツッコミたくなるほど、とどまるところをしりませんでした。
いまは「メイド喫茶」でしょうか。ずいぶん大人しくなりました、若者が。
それでも「マンガ喫茶」や「インターネット・カフェ」よりも人とのダイレクト・コミュニケーションがとれるだけましですか。
とにかく、昭和30年という年は若者のエネルギーが大爆発を起こした年なのですね。
翌31年に出版された石原慎太郎のベストセラー小説「太陽の季節」はまさに、そうした社会、若者の動きを反映していました。
しばらく前にふれたアメリカ映画「暴力教室」の公開も30年でしたし。
そして愚連隊が社会問題になっていくのもこの頃で、全学連が政治の季節に突入していくのもまたそうでした。
日本史上かつてないほど若者たちがエネルギーを爆発させた“反抗の時代”が昭和30年からはじまっていたのです。
戦前は教育、社会道徳によって若者はギチギチに拘束されていました。したがってヤクザなどのアウトローなんかになるのは限られたごく一部の人間。あとは不平不満を抱えつつ社会の一員に。
それが戦後10年、いってみればようやく軍国主義、帝国主義の魔力から解放されたのですね。学校でも世間でも若者たちがルールを道徳を破るのに躊躇しなくなったのです。それどころか、そうすることが若さの特権だとばかり。
現在そうした彼らのエネルギーはどのように消費されているのでしょうか。
まさかゲームやケータイで使い尽くされていたりして。
それはそれでいいじゃないかって? そりゃまぁ……。
では「深夜喫茶」全盛だった昭和30、31年に巷に流れていた歌のいくつかを。
エラそうなこといってきましたが、その頃はまだヨチヨチ歩きの洟垂れ小僧だったんですけど。
狂った果実 石原裕次郎
素敵なランデブー 美空ひばり
哀愁列車 三橋美智也
この世の花 島倉千代子
別れの一本杉 春日八郎
東京アンナ 大津美子
東京の人 三浦洸一
ケ・セラ・セラ ペギー葉山
チャチャチャは素晴らしい 雪村いづみ
哀愁の街に霧が降る 山田真二
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