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【商人宿】 [obsolete]

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『行商に出たまま、幾日も神戸の家には帰らないで、さびしい村の商人宿にとまったこともあった。埃っぽい街道から、親子三人の泊まっている、何のかざりもない部屋の、赤茶けた襖や畳に、馬糞くさい砂ぼこりが舞いこんでいた記憶もある。……』
(「波子の幸福」田宮虎彦、昭和26年)

「商人宿」は、行商人や商用で出張してきた会社員が宿泊した宿。いまでいえばビジネスホテルということになるが、この小説の時代、つまり戦前では四畳半、あるいは六畳一間の畳敷きがほとんどだった。「何のかざりもない……」と“引用”にあるように、家具調度などはほとんどなく、押入に布団が入っているだけの部屋で、トイレも風呂も共同というのが一般的。ただ寝るための宿泊施設で木賃宿、安宿と変わらなかった。

もちろんなかには、食事を用意するところもあったが、もちろんその分料金は高くなる。気になるのは宿泊料金。はっきり数字が出ているわけではないが、たとえば昭和15年の地方公務員の初任給が45円、帝国ホテルの一泊料金が10円というところから推理すれば、1円前後だったのではないだろうか。

商用で出てくる人間が最も多いのが東京。それは今も昔もで、そのため「商人宿」も多かった。とりわけ上野あたりは、そうした宿が軒を連ねていたという。現在ではすっかり清潔なビジネスホテルやカプセルホテル、あるいはサウナに押されて姿を消した感があるが、ときおり、連れ込みでもない雰囲気で看板に「○○旅館」と書かれた家が裏町にあったりする。それが「商人宿」の名残りなのだろう。

「波子の幸福」は講和条約が結ばれた翌年、雑誌『小説公園』で発表された短編。

他人からお姫さまみたいだと褒められるほどの可愛い波子はものごころつくと、五十過ぎの行商人の両親に育てられていた。その両親は彼女が十歳のときに相次いで亡くなる。幸いにも父母の客だったキリスト教の婦人伝道師・ようが波子を引き取る。彼女はなんの抵抗もなくようを「お母さん」と呼ぶ。

教会の宿舎から女学校へ通うようになったが、ある日突然ようが教会を出ることになり、波子も女学校をやめた。ふたりはようの実家の信州へ身を寄せる。しかし、ふたりは歓迎されざる“客人”で、やがて波子は東京にあるようの知り合いの大工の棟梁の家へ行くことになる。

職人を何にも使う棟梁は、昔、ように世話になった人間で、娘がいないこともあり波子を歓迎する。そこで再び女学校へ通うようになった波子は何不自由なく暮らす。そして、良縁に恵まれ、まさに結婚というときに棟梁である父親が仕事に失敗し破談となってしまう。それでもやがて波子は、棟梁の遠縁の男と結婚する。幸福な結婚は7年続いたが、不幸は突然やってきた。ある日夫が交通事故で亡くなってしまったのだ。

そのときになって波子は、はじめて自分の幸福だった人生に疑問を抱く。幼い自分を残して相次いで死んでしまった行商人の両親、実家に戻りながら冷遇されていた二番目の母・よう、会社を潰してしまった棟梁、そして交通事故に見舞われた夫。すべて自分のせいではないのか、自分の幸福と引き換えに周囲の人が不幸になっていくのではないのか、そう考えるようになったのである。

30歳になった波子は自立を決意した。亡くなった夫の会社の便宜で満州の工場に就職することになったのだ。そして、満州で3年目に母・ようを呼び寄せた。涙ながらに喜んだようはその3年後に静かに人生を終えた。

そして波子が40歳になったとき、以前から結婚を申し込まれていた工場長と結婚した。戦争が終わり、東京へ戻った波子は夫と幸福な生活を送っていた。そして余裕ができたとき自分の両親のことが気になり、出身地である広島県のある村へ調べに行った。そこで、自分が両親から拾われた捨て子だったことがわかる。

夫をみつめる波子は、また何かの不幸がこの人を見舞わないだろうかと、ときどき不安になるのだった。

幸不幸、運不運というのは不平等に訪れる。「波子の幸福」のヒロインの人生は捨て子という不幸からスタートした。そして“禍福はあざなえる縄の如し”の言葉どおり幸不幸が彼女にやってくる。しかし、まだ道半ばにせよ、誰一人恨むことなく人生を歩んできた波子は題名が示すとおり幸福だったのだろう。


昭和26年、この年流行った歌
プロ野球はセ・リーグの巨人軍がパ・リーグの覇者南海ホークスを破って日本一になった。
監督は水原茂。巨人の主軸は赤バット・川上哲治。打率3割7分7厘でシーズンの首位打者とMVPを獲得。
風呂屋の下駄箱16番争奪戦が行われたのもこの頃で、今でも使われる(?)「弾丸ライナー」という言葉は川上の矢のような鋭い打球から生まれた。

なんて講釈師のようなことをのたまっております。


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