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峠③お花ちゃん [a landscape]

峠・三橋美智也.jpg

♪ 今度帰って来たときは
  おまえは俺いらの花嫁ご
  金襴緞子の帯締めて
  シャンシャンシャラリコ鈴鳴らし
  馬こで峠を越えて来な
  泣いたって泣いたって
  あゝすっかたなかんべさ
(「お花ちゃん」詞・矢野亮、曲・吉田矢健治、歌・三橋美智也、斎藤京子、昭和31年)

「峠」といえばすぐに連想するのが時代劇。
侍だって商人だって渡世人だって、みんな旅をするときは、越えにゃならない峠道。

やっとこさ登りついた峠。ここらで一息入れたい。そこにはおあつらえ向きに茶店がある。
お爺さんと孫娘の2人できりもりしていたり。渋茶でのどをうるおして、小腹がすいてれば団子だってある。そこには目つきの鋭い薬売りがいたり、つねに視線を動かして落ち着かない三度笠や、深編笠の浪人風情がいたり。

なんていうのが時代劇の典型。
それが、明治の世になって山の土手っ腹にトンネルが掘られ、鉄道が走るようになって。
それまでひと月以上かかっていた東京-大阪間がいまや3時間あまり。人間てどえらい生きものだなと、つくづく思ってしまう。

峠の重要性が薄れていくにつれて、当然の如く庶民の頭の中にも「峠」という概念が消えていく。関東で言えば、峠はまさに“江戸の名残り”。
とはいえ、そんな名残りも昭和の30年代ぐらいまでは「引っぱる」ことができた。
映画やテレビでは時代劇が人気だったし、流行歌の世界でも「峠」はいまだ混合化されていなかった地方と中央を隔てる“場所”として存在していた。少なくとも昭和39年(1964)の東京オリンピックあたりまでは。

流行歌の世界で、昭和20年代後半から30年代にかけて最もその「峠」を越えていった歌手が三橋美智也
昭和5年北海道生まれで幼い頃から民謡と三味線に親しみ、25年に流行歌手をめざして上京。キングレコードからデビューしたのが29年、24歳というからいまの時代と比べても決して早くはなかった。

デビュー曲は「酒の苦さよ」で、これは民謡の「新相馬」を編曲したもの。
そのあと数枚のレコードをだしたもののさっぱり。ラストチャンスと思って吹き込んだのが「おんな船頭唄」。昭和31年の4月のこと。
やっぱりだめか、と思ったその年の押し迫ったあたりから急にレコードが売れ出して、またたくまに大ヒット。その後の「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いてる波止場」「リンゴ村から」「哀愁列車」と立て続けのビッグヒット。その「哀愁列車」で31年の紅白歌合戦初出場、一躍トップシンガーに。

ついに三橋美智也は“ブーム”となった。ミーちゃんハーちゃんのアイドルとなった。いまでも使われる(使わないか……)「シビレる」という言葉は彼のファンたちの讃辞から流行りだしたのだと。

その彼の代表曲でもある「哀愁列車」の4カ月後の10月にリリースされたのが上にのせた「お花ちゃん」。やはり民謡歌手だった斎藤京子とのデュエット。
志を抱いて(多分)東京へ出て行く男と、許嫁とのわかれの場面。
「きっと成功して返ってくるからな、それまで待ってろよ」「あなたを信じて待ってるわ」てなもんですか。

上にのせた詞は4番で、男が故郷に錦を飾ったら、花嫁衣装で峠を越えてこいと言っている。ということは、彼女は峠を越えた隣村の娘なのだろう。

そしてその翌月に出たのが「みれん峠」
♪忘れまいとて 後ふり向けば うるむ峠の 紺がすり
正調民謡風ど演歌。峠を越えて他国へ行く男と、残る女。「お花ちゃん」の2人と違うのはどうやらこれが永遠の別れになりそうな雰囲気であること。別れる理由は例によって詳らかではないが、曲調といい“紺がすり”といい股旅もののにおいも。

翌年には「峠の馬っこ」が。
♪手綱引くの いとしの美代さ 峠三里を唄で行く
こちらは短調の哀愁演歌。この「峠」は別れの場所ではない。思いを寄せている娘・美佐が炭を積んだ馬を曳きながら歩いているのを、野良仕事(ほんとかよ)をしながら見ているのだ。男はなかなか打ち明けられないが、思い切って声をかけ明日の祭りに誘ってみようかと。

あの「夕焼けとんび」がヒットした33年には「島の見える峠」
♪想い出の 峠に立って 見る海は いつかの様に 澄んでいる
これまた哀愁演歌。これも“別れの峠”だが、それから何年か経ったという設定。あの時2人が別れた峠に立って海を見ると、あの時と同じ島影が見える。できるものならと思って逢いに帰ってきたが、逢ってどうなるのか……。あの日の想い出をこわさずに、このまま峠を越えずに戻ろうか。まるで長谷川伸の世界ですね。

そして「月の峠路」が続く。
♪明日を想えば 涙がにじむ ハァー ともに行きたい 月の路
これも「みれん峠」の路線。同じく峠で別れ行く男と女。どちらが主人公かはうたってないが、峠からの“去り人”は馬に乗っていくようなので、待つのが男かも。こういうケースはたいがい女が嫁に行くのだが、この歌では ♪また逢う日まで というので、そうではなく奉公か何かで峠の向こうの町まで行くのかもしれない。

昭和34年は「古城」が大ヒット。それに先駆けて出たのが「笛吹峠」
♪ひとり行く旅 信濃路に ああ笛吹峠 風吹けば
笛吹(ふえふき)峠といえば岩手県の遠野と釜石の間にある六角牛(ろっこうし)山の尾根にある標高862mの峠が有名で、柳田国男「遠野物語拾遺」にも登場する。
しかし、歌詞をみるとわかるとおりこの歌での「笛吹峠」は信濃路となっているのであきらかに違う。実は全国に名の知れた「笛吹峠」が3つある。ほかの2つは山口県の周防大島と埼玉県中央部の比企丘陵。いずれも信濃ではない。
笛吹は「うすい」とも読み、長野と群馬の県境には軽井沢に通じる碓氷(うすい)峠がある。作詞者(高橋掬太郎)がシャレて「笛吹」としたのかもしれない。

最後は「みんな見えなくなる峠」
♪大人になったら越えてやろ みんな見えなくなる峠
三橋美智也は平成8年に亡くなったのだが、その後の“未発表曲”を集めたアルバムの一曲。吹き込み年度が記されていなかったが、30年代後半から40年代にかけての曲。
これがなんと異色のルンバというかラテンリズム。和風の詞とのミスマッチがなんとも。
その内容は兄と姉を峠で見送った少年の話。「姉ちゃん、幸せか?」「兄ちゃん、東京がそんなにいいか?」と問うてみる。そして「大人になったら、俺らもこの峠を越えてやるんだ」と決心する。
そうして誰もいなくなってしまう峠はまさに故郷の形骸化を意味していている。「峠」の消滅を示唆している。

三橋美智也がなぜあの時代に熱烈に支持されたのか、これらの「峠」の歌も含め彼のヒット曲を聴くとわかるような気がする。

行くも残るも故郷と都会(東京)の対照が浮き彫りにされた時代だった。三橋美智也はそれを代弁した。ときには旅立つ者として、ときには見送るものとして。かわらないのはどちらにしても、それが常に地方に生まれ育った者の視線だったということ。
だからこそ、都会へ行った者も行かなかった者も、三橋美智也の歌に自分を投影することができたのだろう。

そう考えると「峠」とはまさに都会と故郷の分岐点だったといえる。そしてその「峠」が消えていくということは、都会と故郷の違いがなくなっていくということにほかならない。
昭和20年、どん底に突き落とされた日本人が、どうにこうにかかひとつの峠を越えた。それが昭和30年代だった。そして新たなる峠を目指して歩き始めたのだったが。


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