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Sophisticated Lady ④ [story]

秋祭り露天⑧.jpg

隆の住んでいるアパートの斜向かいの部屋に淑恵父娘が引っ越してきたのは4月、ちょうど6年生の新学期が始まって間もない頃だった。

淑恵の父親は背が高く、痩せて無口な男だった。
隆とすれ違うとき、大人にするのと同じように丁寧に頭を下げる。しかし、言葉を発するのでもなく、表情を変えるのでもなく、まるで幽霊のように通りすぎて行く。

淑恵は隆より4つ年下の小学2年生。
母親も兄妹もいないので、学校から帰ると夜、父親が帰ってくるまでひとりで過ごさなければならない。父親が仕事から帰るのは早くても午後10時過ぎ、ときどきは帰らないこともあった。夕食は父親がかんたんなものを用意しているようで、淑恵はひとりで食べていた。
ある夕方、共同トイレの清掃のことで隆の母が淑恵の部屋を訪ねたことがあった。そのとき見た淑恵の夕食があまりにも粗末だったので、翌日から淑恵は隆の家で食事をとることになった。

これが隆と淑恵の不思議な縁のはじまりだった。

無口ということでは淑恵は父親によく似ていた。それでも時々隆のいう冗談に顔をあげ、声を出さずに笑うこともあった。すると隆の姉の富美子が「淑恵ちゃんが笑った」と歓声をあげる。ひと月も経つとそれが、何年も続いているようなごく自然な家族の食事風景となっていた。

姉とふたり兄弟の隆にとって、急にできた“妹”は不思議な感覚であり、内心嬉しかった。しかし、外ではつとめて無関心を装った。とくに朝一緒に登校するときなどは、他人が見たら「どうしたの?」と思うほどの渋面をつくり、少し離れた淑恵の前を歩くのだった。

そしてその年の夏が来た。
淑恵は相変わらず無口だったが、それでも隆の母には学校でのできごとをポツリポツリと話すようになった。その様子が隆にはなんとなく嬉しかった。

そんな夏休みのある日、隆が淑恵を夏祭りの縁日に連れていくことになった。ふだんなら姉の富美子が連れていくのだが、彼女は林間学校で不在だったのだ。
隆は不満だった。友達と行く約束をしていたからだ。
だが、姉のお下がりの浴衣を着せられ、母から髪を三つ編みに結ってもらっている淑恵の羞恥のまじった笑顔を見ていると、断ることはできなかった。

そんな淑恵を隆は縁日で置いてきぼりにしたのである。友達のところへ行くために、金魚すくいを見入っている淑恵を置き去りにしたのだ。

逃げ出したあと、それでも良心が咎め、しばらく物陰から淑恵の様子を見ていた。
隆の居ないことに気づいた淑恵は綿菓子を持ったまま何度も辺りを見回している。そして、泣きそうな声で「たかしちゃーん……」とつぶやいた。
その声が耳に届くと隆は耳を塞ぎたい気持ちで背中を向け、闇に向かって一目散に走った。走りながら隆の耳には、淑恵が初めて呼んだ自分の名前が波のように、何度も聞こえては消えていった。

その夜、隆は母親からこっぴどく叱られた。
そして布団の中で涙をこぼした。母親の「男の子のすることじゃないわね」という叱責の言葉と淑恵が自分を呼んだあの声がいつまでも耳から離れず、なかなか寝付けなかった。

そんなことがあってから数日後の夏休み最後の日、淑恵父娘は突然引っ越していった。それはほんとうに突然で、隆が午後友達の家から帰ってくると淑恵はもういなかった。母も「前もってひと言ぐらい言っておいてもいいのにねえ」と淑恵の父への恨み言をつぶやくほど急な話だった。

半年足らずだったが、隆にとって淑恵の存在は大きかった。大事に育てた庭木が、突然根こそぎ引き抜かれてしまったような寂しさと、やり場のない怒りを覚えたものだった。

去る人日々に疎しとはいうが、中学になっても高校へ行っても隆が淑恵のことを忘れることはなかった。ときどき、それも突然、淑恵の顔が浮かんでくることがあった。はにかんだような薄い笑顔だったり、あの縁日の夜に見た眉を寄せた悲しげな顔だったり。
それは隆にガールフレンドや恋人ができても変わらなかった。ただ、隆がどれだけ成長しても蘇る記憶の淑恵は小学2年生のままだったのだが。


ふたりが再会したのは隆が大学を出て旅行会社に就職した年だった。
得意先の接待での2軒目、行きつけの店が混んでいたため初めて入ったそのバーに淑恵はいた。

「関口さんでしょ?」気づいたのは淑恵の方だった。
18歳の淑恵は変貌していた。そういう世界独特のドギツイ化粧にも驚いたが、なによりもその饒舌が昔の淑恵の印象とは結びつかなかった。それでもしばらくすると、淑恵の濃いマスカラの奥に懐かしい瞳を発見して、隆は奇跡に遭遇したような感動を覚えたものだった。

それから隆は毎日のように淑恵の勤める店に通いはじめた。
しばらくすると淑恵が「タカシ君、これからは外で逢おうよ」と言いだした。あとで考えれば、それは隆が安月給であることに気をつかってくれたからだろう。

外で逢うといっても平日、隆の仕事が終わり、淑恵の仕事が始まるまでの1時間あまり喫茶店で話をするだけのことだったのだが。それでも隆にとってはその日一日の充実を感じるほど楽しい時間だったのだ。

淑恵にヤクザ者の男がいることに気づいたのは、それからまもなくだった。
話を聞けば男は“ヒモ”で、淑恵にとっても成り行き上の関係で、愛情のひとかけらもないように思えた。
「別れなくちゃだめだよ、このままじゃきっと君が不幸になる」
世間知らずの隆は自分の情熱で男と女の関係をどうにかできると信じていた。

「それじゃ、何もかも棄てて私とどこかへ逃げてくれる?」
「もちろんさ。誰も知らないところへ行って二人でやり直そう」
二人は翌朝、東京駅で落ち合うことを誓って別れた。
隆は正直会社を辞めても両親から非難されてもかまわない、と思った。二人が逃げた先に何があるのかは分からない。それでも淑恵を救うにはそうするしかないと信じていた。

そして翌朝。隆は東京駅のホームの上で立ち尽くしていた。約束の時間を2時間過ぎても淑恵は来なかった。

その日、夜の帳が降りるのを待ちきれずに隆は淑恵の勤めるバーへ急いだ。
しかし淑恵はいなかった。無断欠勤で、アパートにも不在とのことだった。

それから数日間、隆は店に通ったが淑恵の姿を見ることはなかった。店の人間の言うことを信じられず、なんとかアパートの住所を聞き出し訪ねてみたが電気は消えたままだった。
淑恵は始めの予定通り、あの日この街から逃げていったのだ。予定と違ったのは隆と二人ではなくひとりだったこと。

失意をごまかし仕事をする隆のもとへ、淑恵の男と称するヤクザ者が訪ねてきたのは、それから半月後のことだった。
淑恵は男と逃げたのではない。それが隆の唯一の救いだった。

そして隆は、淑恵が一人で消えてしまったのは、自分をトラブルに巻き込まずに男と別れる唯一の方法だったのではないか、という考えに思い至った。
そうならば、いつか必ずまた彼女と逢える日が来るはずだ。隆はそう思った。


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