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冬歌④もずが枯木で [noisy life]

♪もずが枯木に鳴いている
 おいらは藁をたたいてる
 わたびき車はおばあさん
 こっとん水車も回ってる

 みんな去年と同じだよ
 けれども足んねえものがある
 兄(あん)さの薪割る音がねえ
 バッサリ薪割る音がねえ

 兄(あん)さは満州へ行っただよ
 鉄砲(てっぽ)が涙で光っただ
 もずよ寒いと泣くがよい
 兄(あん)さはもっと寒いだろ
(「もずが枯木で」詞:サトウハチロー、曲、歌:徳富繁、昭和10年)

「もずが枯木で」の作詞者、サトウハチローは、鋭い感性でつかみ取った世界を平易でありながらユニークな言葉で表現した詩人。代表作が詩集「おかあさん」で、亡くなるまでに3000以上の「おかあさんの詞」をつくったといわれています。

父親は作家の佐藤紅緑。その父親への反発で中学時代は何度も鑑別所のお世話になったという浅草の不良少年。
その後、西條八十らに師事し詩作をはじめる一方、やはり西條の影響で歌謡詞も書くようになる。

戦後の歌謡曲ではなんといっても、新しい時代のファンファーレにも聞こえた「リンゴの唄」(並木路子)が知られています。ほかでも「長崎の鐘」、「夢淡き東京」(いずれも藤山一郎)、「胸の振り子」(霧島昇)、「悲しくてやりきれない」(フォーククルセダーズ)などが。

童謡唱歌では「かわいいかくれんぼ」「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」「わらいかわせみに話すなよ」などの名作を残しています。

「もずが枯木で」は昭和10年、雑誌「少年倶楽部」に掲載されたもの。
しかし、この歌が注目されたのは戦後。昭和20年代の後半から起きた“歌声運動”やその延長にあった“歌声喫茶”によって取り上げられます。

もちろんその詞から伝わる“反戦”の思いが支持されたわけです。
ちなみに当初、この「もずが枯木で」は茨城県民謡と誤解されていました。その理由は作曲の徳富繁が茨城県の中学校の先生で、その一帯で頻繁にうたわれていたからとか。

のちに、岡林信康がレパートリーに加えるほどの反戦歌ですが、この詩がつくられた当時、作者のサトウハチローには、それほど強い反戦思想があったわけではありません。

ただ、兄を戦争でなくした弟の寂しさや悲しさを、梢のもずに語りかけるというかたちで叙情的に表現したものです。もちろん、そこには詩人の直感的な厭戦の気持ちが含まれていたことは間違いないのですが。

昭和10年、日中戦争が抜き差しならない状態に陥り、やがて戦争はさらに拡大していくという予感の中で、もはや反戦歌など出てくる余地などどこにもなかったはず。

国家の検閲も厳しくなり始めた頃で、もしこの「もずが枯木で」(雑誌に掲載されときは「百舌よ、泣くな」)がレコード化されていたら、おそらく発売禁止になっていたでしょう。
反戦ではありませんが、やはり昭和10年、サトウハチローが玉川英二のペンネームで書いた「二人は若い」は「戦時下にエロすぎる」という理由で発禁になっています。

そんな時代にあっても、良心から反戦を表明する音楽家がいたのでは? と思う人がいるかもしれません。しかし、残念ながら少なくとも第一線で活躍していた作曲家あるいは作詞家、歌手にはひとりもいなかったはず。

「鉄砲が涙で光っただ……」と厭戦の気持ちをもつサトウハチローでさえ、「勝利の日まで」や「いさおを胸に」など戦争を肯定、鼓舞するいわゆる軍歌をいくつもつくっています。
ただ、どうしても自分は軍歌をつくれないという音楽家もいたのではという想像はできます。たぶん、そういう人たちは、音楽の世界から去っていったのではないでしょうか。

音楽の世界に限らず、文学でも、美術でも、本来自由であるはずの世界で表現活動を行っていたアーチストたちが、こぞって戦争に荷担したのです。

たとえば、日露戦争時、弟のことを思い「君死にたもうことなかれ……」とうたい、天皇を批判した与謝野晶子ですら、大東亜戦争時には、「……大君のためにかばねを、野にさらす日をばこの世に……」と、みごとに180度の転回をしてしまったのですから。

戦後、小さな“くすぶり”はあったものの、戦争に“荷担”した芸術家たちはほとんどその責任を問われることなく“現職”に復帰します。なかには、みずから恥じて引きこもってしまう人もいましたが。

なぜ責任が問われなかったかというと、責任を追及する人間がいなかった(一部共産主義者などをのぞいて)から。つまり国民のほとんどが、彼らと同じ考えだったからなのです。

“一億総懺悔”ということは、だれも謝らなくてもいい、ということでもありました。

そこから日本人の無責任体質が生まれたというのは少し大げさですが、かくも戦争が、個人の思考を麻痺させ、ねじ曲げてしまう、いやらしくもおそろしくも薄汚いものだということがわかります。ほとんどの人間は弱いものなのです。
そう思わなければ、あの賢明なるドイツ国民が、ナチスやヒトラーのホローコストを容認した説明がつきません。

賢明なる日本人は“あの戦争”でしっかりと学習したはず。将来万が一戦争に巻き込まれそうになったときには「いかなる戦争にも反対する」という声があちこちからわき上がってくることでしょう。くると思いいます。くるような気がします。きてほしい。(「関白宣言」か?……)

軌道修正。「もずが枯木で」でした。
もずといえば、カエルや昆虫を捕らえて木の枝に刺し、冬の食糧とする速贄(はやにえ)が知られていますが、残酷なのか賢いのか。
なぜ「もず」なのかは、その鳴き声からという説が有力。モズモズ泣くのだろうか。甲高いキィーという声が一般的ですが。

ただ、もずは、九官鳥、オウム、インコとともに鳥類の“物まね四天王”といわれている(ウソ)ように、鳴き真似が上手(これはホント)で、様ざまな鳥の鳴き声をカヴァーするといわれています。

「もず」を漢字で「百舌」あるいは「百舌鳥」と書くのは百色の鳴き声をする、ということからだとか。
二枚舌っていうのは聞くけど、百枚舌とは……。 


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