SSブログ

【朝日】 [obsolete]

『「おじちゃんは山へお母ちゃんと行っとります。……しばらく待っていて下さい」
 みんがそういうと、男はにやりと口ひげをうごかしてうなずいた。瞬間、チラッと疑い深い目をしてみんをにらんだが、上がりはなに腰かけると、背広のポケットから巻タバコの朝日をとり出してすい口をひとひねりしてから、口にくわえた。』
(「有明物語」水上勉、昭和40年)


「朝日」はタバコの銘柄。
いまや蛇蝎の如く嫌われているタバコだが、その歴史は酒にくらべると浅い。西洋にタバコが伝えられたのは、かのコロンブスによってという話は知られているが、日本に伝わったのは江戸時代、鉄砲、キリスト教に続いて。したがって300年程度の歴史しかない。それがもはや滅びようとしている。

「朝日」は明治後半、政府によってタバコの専売制度が敷かれた時に発売された紙巻きタバコ5銘柄のうちのひとつ。他は“敷島”“チェリー”“大和”“スター”の4銘柄。

紙巻きタバコには“両切り”と“口付き”があった。両切りというのは現在のショートピースのように、両端が切り落としてあるもの。口つきは片方に吸い口という厚紙が付いているもの。いってみれば、今のタバコのフィルター部分が外側のみで中味のないようなかたち。もちろん、当初はフィルター付きなどなかった。

「朝日」は口つきで、明治、大正期は“口つき”が主流で、両切りが増えていくのは昭和になってから。“敷島”にくらべると庶民的なタバコが「朝日」だった。

昭和40年代でも、吸う人はいたようで、煙草店の店先に置かれていた。若い頃、この口つきの朝日と両切りのゴールデンバットを買ってみたことがあったが、どちらもまずいタバコですぐにやめた。

口付きの朝日は、“引用”にあるように、吸い口をクシャとひねってから銜え、火をつけるのが粋な吸い方。実は、東映映画「昭和残侠伝」池部良がさり気なくそういう吸い方をしていたのを見て真似したことがあった。その「朝日」も昭和50年代に入ると製造中止になってしまった。

「有明物語」は昭和40年に発表された水上勉の作品。透明感のある民話風のストーリーで、著者お得意の健気な女性が描かれている。また、戦後20年を経てもなお、戦争の傷跡がくっきりと刻み込まれている作品でもある。

奥信濃の有明村というところに、紬を織る小菅しんと、その娘で15になるみんという美しい母娘が住んでいた。昭和13年のことだった。しんの夫・豊蔵はみんが5歳のときにぜんそくを悪化させて亡くなった。そんな女ふたりの暮らす家へ、あるときひとりの男が訪ねてきた。男は橋爪庫造といい、まだ豊蔵が生きている頃、何度か訪ねてきた仲買人だった。庫造はそのままみんの家に居ついてしまった。といっても、庫造の部屋は納戸だったのだが。

奥信濃の冬は厳しく、薪造りひとつとっても女所帯には辛かった。それが庫造が来たおかげでしんもみんも力仕事から解放された。それと同時にみんは50近い母がめっきり若返ったように感じていた。そんなある夜、みんは水車小屋で抱き合う母と庫造を目撃してしまう。それからしんと庫造は夫婦同然となり、村人たちもそれを公認する。みんも母親を奪われたわだかまりを抱きながらも認めるのだった。

しかし不孝は突然やって来た。庫造は実は脱走兵で追っていた憲兵に逮捕されてしまったのである。それから間もなく庫造の跡を追うようにしんが亡くなった。

天涯孤独となったみんは、ひたすら紬を織り続けた。その美しい姿は、家の前を通る村人の足を止めるほどだったという。みんの心の中に時折、あの水車小屋で抱き合う母・しんと庫造の姿が浮かんだ。それをみんはとても美しいものと感じていた。
戦後、みんの織った有明紬が全国民芸展で金賞を受賞した。そしてその年の冬、みんは肺炎で亡くなった。男も知らず、機を織る以外楽しみを知らない28年だった。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。